北 一輝
北一輝は二・二六事件に連座して処刑されていますが、北が蹶起を指示したわけではなく、二・二六で蹶起した青年将校の中に北に心酔していた若者がいた、といったことのようです。確かに最後の著作である「日本改造法案大綱」において北は「憲法の一時停止による国家改造」を提案していますので、青年将校たちに影響を及ぼした面はあるのでしょう。またそのことをもって北が青年将校を動かした、とみることもできるでしょう。確かに北自身は蹶起の責任をとって従容として処刑を受け入れたようにみえます。
しかし最初の著作である「国体論及び純正社会主義」における北の主張は、「国民は天皇の赤子である」といういわゆる「国体論」に対する徹底的な批判であり、また表題にあるように「社会主義」、しかも当時流布されていた輸入された外国の社会主義思想ではなく、自力で作り上げた「純正」社会主義の理論だと言っているのですから、青年将校たちが思い描いていた天皇親政による国家改造とは性格を異にしていたといえるでしょう。
ここではまず、北が「民族の政治史」と呼んでいる「国体論」批判を概観してみます。北の魅力の一つはその文体にあります。それは壮大な浪漫といった感じで、他者への否定は舌鋒鋭く、自ら構築している理論には情念が論理から思わず飛び出してしまっているような魔力があります。
こうした文体にのせて北が描く歴史の記述は、国民は常に天皇に忠孝を尽くしてきたという「国体論」に対し、実はそうではなくて我が国の歴史は常に天皇に背いてきた歴史である、ということを証明するものとなっています。この北による歴史の記述を読んでいると、歴史が生物のように生きている感じが伝わってきます。そこでは「乱臣賊子」という言葉がキーワードになっているのですが、こうした一つの視座を持って歴史をみることにより、歴史が鮮やかな一つの独特な物語となっていく様子を見ることができます。
北の関心はおそらく当時絶対的な存在であった天皇を相対化せんとする所にあるのでしょうが、より根本的には、北がいま生きている現在を、自分が思い描く将来に向け、天皇を支点にして自分の力技で180度ひっくり返そうとしている、そんな印象を受けます。
こうした北の方法論から学ぶべき点は、とても大きいと思います。私たちは誰でも、自分自身の関心と意志に応じて独自の視点をもって過去をみることが可能であり、未来に向けて何かを投企しようとするときは、自分なりの視点をもって過去に臨むと、その中に未来へのヒントを見出すことができる。北の描く歴史からはそうしたことを学ぶことができると思います。
1 民族の政治史
北一輝は、明治16年(1883)に佐渡で生まれ、明治39年(1906)に「国体論及び純正社会主義」を出版します。このとき北は23歳、日本は日清・日露戦争に勝利し、韓国併合に向け着々と手を打っている時代でした。
その後28歳で上海に渡り、32歳で辛亥革命前後の中国革命の状況を記述した「支那革命外史」を書き始め38歳のときに出版、40歳で「日本改造法案大綱」を出版。そして昭和11年(1936)53歳のとき、二・二六事件に連座し翌年死刑判決を受け銃殺されます。
北は最初に出版した「国体論及び純正社会主義」において、当時広まっていた「国体論」を批判し、自らの国体論と政体論をこの書物において提起し、その上で独自の社会主義論を展開しています。
ここで北が批判している「国体論」とは、「天皇は家長として民の父母なり」ということと「日本民族は皆忠孝にして万世一系の皇統を扶翼せり(助けてきた)」という内容のものです。この「国体論」を北は「妄想」であると批判し、「粉砕すべきのみ」と言い切っています。
国体論が日本歴史を解して皇室に対する乱臣賊子は二三の例外にして国民は古今を通じて忠臣義士なりしと云うと正反対に、歴史的生活以後の日本民族は皇室に対しては悉く乱臣賊子にして例外の二三のみ皇室の忠臣義士なりしとの真実を以て国体論其の者を転覆することは迷信者の最も善く覚醒すべき刺激たるを以てなり。(第十一章P309)
「国体論」は日本の歴史を解釈して、二、三の例外はあるが国民は皇室に対して忠臣・義士であったと言うが、実は日本民族はことごとく皇室に対する乱臣賊子(主君に反逆する家来と親に背く子供)であり、例外の二、三だけが皇室の忠臣、義士であったというのが真実である、ということが言われています。この、日本民族は皇室に対する乱臣賊子であった、という視点で歴史を見るとき、「国体論」によって隠蔽されている歴史が浮かび上がってきます。
北による「乱臣賊子」の記述は蘇我氏から始まりますが、時代をたどるためにここでは弥生時代から歴史を追ってみます。
弥生時代
紀元前1世紀頃当時は倭と呼ばれていた日本には、100余りの小さな国がありました。やがて2〜3世紀の弥生時代後半になると小国同士の内乱があり、その結果卑弥呼を女王とする邪馬台国が30ほどの国を勢力下におく連合国家が成立します。
古墳時代
その後4世紀になると、大王(おおきみ)を中心とする豪族連合であるヤマト政権が成立します。5世紀には讃・珍・済・興・武と呼ばれる倭の五王が中国南朝の宋という国に使いを送ったという記録があります。5番目の武王は、21代目の雄略天皇だと考えられています。ほぼ確実に実在しただろうと考えられているのは15代応神天皇ですが、この頃から天皇(当時は大王)を中心に、この国が形作られていきます。
飛鳥時代
ヤマト政権では大王のもとで中央の豪族が朝廷を構成し、政治を行っていました。この豪族の中でも有力だったのが、蘇我氏です。蘇我稲目は自分の娘を29代欽明天皇に嫁がせます。31代から33代の用明・崇峻・推古天皇はこの娘たちの子供なので、稲目は天皇の祖父ということです。こうして蘇我氏は天皇家の外戚として権勢をふるいます。
稲目の息子である馬子は政敵の物部守屋を滅ぼし、続いて崇峻天皇を暗殺、姪の推古天皇を即位させ、蘇我氏の血を引く聖徳太子を摂政とし、さらに権勢を拡大します。大王の権力が確立していくにつれ、権勢の拡大を狙う豪族たちの動きも活発になりました。北の「乱臣賊子」の記述はこの時代から始まります。
遂に蘇我族の強大となるや、他の諸族を圧倒し帰伏せしめて皇族と強者の権を争ふに至り、而して相降らざる迄の対抗を為すに至れり。(第十一章P310)
ここで言われているのは、蘇我氏が皇族に対抗して権力を巡って争うまでに強大になった、ということですが、蘇我氏が自分の子供を「皇子」と呼んだり、天皇の警備を役目とする「儀仗」を従えて出かけていた、などと例をあげて蘇我氏の台頭を説明しています。そして北がこうした例を示すのは、次のようなモチーフによります。
歴史的生活の始まると共に強者の権を以て皇族の強に対抗せし第一の事例として、例外なる乱臣賊子が開巻第一章より存せしことを指示せざるべからず。(第十一章P310)
「国体論」が主張するような二、三の例外であるはずの乱臣賊子が、歴史の最初(ここでは蘇我氏の台頭)から登場していることは、天皇の歴史がその当初から国を乱す臣下の反逆の歴史であることを示している、と北は言います。
こうした蘇我氏の専制に対し、のちに38代天智天皇となる中大兄皇子が中臣鎌足とともに、蘇我馬子の息子である入鹿と孫の蝦夷を殺害します。中大兄皇子は蘇我氏とは血のつながりのない皇子であり、中臣鎌足は天皇家の祭祀を司る中央の豪族でした。こうして天智天皇による公地公民制を中心とする改革が始まります。大化の改新です。
しかし天智天皇の死後、天皇の子の大友皇子と天皇の弟の大海人皇子の間に、皇位をめぐり古代史上最大の内乱である壬申の乱がおこります。乱は大海人皇子の勝利に終わりますが、このあと藤原氏(以前の中臣氏)が勢力を伸ばしていきます。藤原鎌足の息子である不比等は、娘を42代文武天皇の皇后としています。蘇我氏の専制が終わったかとおもう間もなく、今度は藤原氏が外戚となり勢力を伸ばすことになります。こうして藤原氏を軸に歴史が展開する奈良・平安時代が始まります。
奈良時代
藤原氏は、不比等の娘を聖武天皇の皇后にたてて権力を握ります。しかし、不比等の息子の四人の兄弟が疫病で死亡したり、僧の道鏡が力を握ったして、その後政治は安定しませんでした。
平安時代
50代桓武天皇が京都に遷都をしたあと、52代嵯峨天皇が亡くなると、藤原氏4兄弟(南家・北家・式家・京家)のうちの北家が勢いを伸ばします。北家の藤原良房は857年太政大臣に任ぜられたあと、56代清和天皇が幼少で即位すると、その外祖父として天皇にかわって事実上政治を掌握します。その後も良房は有力な氏族の勢力をしりぞけ、正式な摂政となります。
良房の養子となった基経は、57代陽成天皇の伯父で右大臣として摂政の任にあたり、さらに太政大臣でもありましたが、甥の陽成天皇を廃して58代光孝天皇を位につけます。
次の59代宇多天皇も基経を関白とし実権を与えます。その後も藤原氏は摂政・関白を代々続け、道長(966〜1028)頼道(992〜1074)の時代に栄華の頂点を迎えます。良房から頼道まで約200年、鎌足から数えれば約400年にわたり藤原氏が朝廷において大きな力を発揮したことになります。この藤原氏の専制に対する北の評価は次のようです。
代を重ぬるに従い天皇の血管中には神武天皇の遠き血液よりも藤原氏の血液が多量に循環するに至り、…国民たる自家の血液を以て皇室祖先の血液と代謝せしめ皇室祖先の血液の多量なるものを排斥して皇位継承権を独占したる藤原氏の連綿たる専制時代は、例外なる乱臣賊子と云はんには余りに長き数百年の例外なり。(第十一章P313)
天皇の血管の中には、祖先である神武天皇よりも藤原氏の血の方が多く流れるようになった。皇室の血を排斥して皇位を継承独占する藤原氏の専制時代を歴史の例外とは言えないだろう。北独特の言い回しです。そしてこのあとも、<例外>の記述が続きます。
天皇に対抗したのは豪族や貴族だけではありませんでした。平安時代後期、白河天皇は幼少の堀川天皇に位をゆずった後も上皇として政治の実権を握る院政を開始しました。その後も鳥羽・後白河と3人の上皇による院政が1世紀にわたって続きますが、この上皇たちは仏教を厚く信仰して多くの寺院も立てました。しかし、上皇の信仰を得て勢力を築いた大寺院は、朝廷に強訴を繰り返すなど、逆に院の権力をおびやかしにかかります。「言うことをきかないと地獄に落とすぞ」と威嚇して。
今日の世人は皇居の外濠に集りて万歳を唱ふるより外知らざるに、当年の彼等は塀を破り門を打ち砕きて宮殿の階前に至り、数珠を揉みて祈り、言聞かざるなれば地獄に落とすと威嚇したるに非ずや。(第十一章P313)
また、白河上皇のとき、自らの軍事的基盤として源氏と平氏を、院の御所を警備する北面の武士や犯罪を取り締まる検非違使にとりたてましたが、このことがやがて平清盛に始まる武士の反乱を引き起こすことになります。
実に、山僧の打撃に対して皇室は余儀なく源平の二氏を近けて保護せしむるに及びて終に皇室を保元平治の膏血中に投ずるに至り、接近は油画を醜ならしむる理由によりて終に無遠慮なる清盛は後白河法皇の侮るべきを発見して露骨に之を迫害するに至りしなり。(第十一章P314)
皇室は山僧の攻撃から身を守るためにやむを得ず源平の二氏を近づけて自分を保護させましたが、最後には保元平治の乱に身を投じることになります。保元平治の乱は朝廷内部の勢力争いですが、貴族社会の争いに武士の力が必要となったことを示しています。こうしたなか、武士で初めての太政大臣となった平清盛は、娘を高倉天皇に嫁がせ勢力を伸ばします。これに対し、平氏打倒を企てる後白河上皇を清盛が幽閉する、という事件も起きました。清盛が露骨に後白河法皇を迫害するようになったとは、このことをさしているのでしょう。
鎌倉時代
鎌倉時代における幕府と朝廷間の最も大きな事件として承久の乱があります。これは後鳥羽上皇が京都で幕府打倒の兵を挙げた事件ですが、結局東国の御家人たちの結束の前に上皇側が敗れ、幕府は後鳥羽上皇を隠岐島、土御門上皇を土佐、順徳上皇を佐渡島に追いやりました。
義時の共犯或は従犯として三帝を鳥も通はぬ遠島に放逐せし他の十九万の下手人、尚後より進撃せんと待ちつつありし二十万の共謀者を忠臣義士の中に数ふることは国体論をして神聖ならしむる所以に非らず。(第十一章P315)
19万人は吾妻鏡に出てくる幕府軍の人数で、援軍がさらに20万人いたかどうかわかりませんが、さすがに帝の放逐に加担するこれらの武士たちを、天皇に忠孝を尽くすもののうちに数えることはできないだろう、ということが言われています。
室町時代
鎌倉時代末期、後醍醐天皇は二度にわたり討幕の兵を挙げました。討幕には失敗しましたが、これをきっかけに畿内の寺社勢力や北条氏に反発する御家人たちが立ち上がり、北条氏一族を滅ぼし鎌倉幕府は滅亡します。こうして後醍醐天皇による建武の新政が始まりますが、足利尊氏が新政府に反旗をひるがえし、この新政も3年で終わってしまいます。
当時朝廷では皇位継承争いから二つの皇統が対立していました。後醍醐天皇は大覚寺統の皇統であったため、尊氏は次の天皇にもう一方の持明寺院統の光明天皇をたて、自分を征夷大将軍に任命させ幕府を開きました。また尊氏の孫の義満は、太政大臣となったり、幕府と朝廷に二分されていた京都の行政権や警察・裁判権を幕府にとりあげるなど、朝廷への支配を強めました。
足利氏に至つては更に甚だし。後醍醐の努力は単に北条氏と足利氏とを代えたるのみにして、鎌倉と京都其れ自身も奪取られたる者なりき。ああ後醍醐天皇と其の忠良なる殉死者!是れ日本歴史を通じて辛ふじて見らるる二三だけの例外にして、…(第十一章P316)
後醍醐天皇は北条氏を滅ぼしましたが、後には足利氏が控えており、結局北条氏が足利氏に代わっただけで、武士に牛耳られることに変わりありませんでした。さらに悪いことに、足利氏には京都まで奪いとられてしまいます。これでもまだ乱臣賊子は二、三の例外と言うのか、と北は言います。
安土・桃山時代
彼が明の公使より愚弄の封冊を受くるや激怒して発したる言を見よ。曰く、「われは我が力を以て天下を取れり。王たらんと欲すれば王、帝たらんと欲すれば帝。何ぞ爾等の封を待たん」と。…即ち、秀吉も亦例外なる乱臣賊子たるべき思想を持して天下に号令したる者なるは論なし。(第十一章P318)
秀吉が政権をとった時、明から公使が来て明帝が秀吉を国王に封ずると言ってきました。秀吉は思わず「俺は自分の力で天下を取ったのだ。王になろうと思えば王に、帝になろうと思えば帝になれる。どうしてお前なんぞにそれを認めてもらう必要があるのか」と激怒します。
秀吉は関白・太政大臣となり、朝廷から「豊臣」の姓を与えられたり、公邸である聚楽第に行幸の後陽成天皇をむかえたりと、朝廷とは円満な関係をもっていました。しかし北に言わせるとそれは秀吉の「演劇的気質」によるものであり、この発言をみれば、秀吉もまた乱臣賊子であるということになります。
江戸時代
江戸時代になると、幕府は朝廷への統制を厳しくしていきます。皇室の領地を禁裏御料といいますが、家康の時は1万石、その後1万石ずつ2回追加されますが、それでも3万石でした。幕府の領地は直轄で400万、旗本領400万で、合わせると800万石ですから、二桁違います。また諸藩の領地と比べても、2万石というのは最低ラインです。
さらに1615年、家康は禁中すなわち天皇、並びに公家に対して規制を加える禁中並公家諸法度を制定します。法度の第1条には、「天皇は学問を第一とせよ」とあるように、細かな規定が17条並んでいます。
この第16条にある規定は、朝廷から高僧に与えられる紫色の袈裟である紫衣の授与を幕府が規制する内容ですが、これをきっかけに事件が起きます。事件とは後水尾天皇が大徳寺などの僧に与えた紫衣授与の勅許を幕府が無効とし、さらにこれに反対した大徳寺の沢庵(沢庵漬けで有名なあの沢庵です) を流罪としたというものです。これは幕府の決定が朝廷の勅許に優先することを示したという意味で大きな事件でした。
「学問手習御勤行御懈怠あるべからず…三種の神器御守りは第一の事」とあるは実に皇室をして歌人たらしめ、空名に過ぎざる三種の神器を擁すれば天皇の任尽くと云う者。吾人は未だ如何なる憲法史にても主権の用を委任されたりと云う者にして主権の体に斯る法規を強制したる事実を知らず。(第十一章P319)
ここで「主権を委任された者」とは朝廷から征夷大将軍の称号を与えられ幕府を開いた徳川将軍を指しています。その徳川将軍が「主権の主体」たる朝廷に対して幕府禁中公家諸法度を強制したという事実が述べられています。具体的には、朝廷に対して、「学問に勤めて怠るな、三種の神器を御守りしなさい」というように、皇室を歌人という枠に押し込め、三種の神器を守っていればいいというような内容です。通常「主権の主体」が上位にある者ですから、朝廷との幕府の関係は完全に主客転倒しています。
乱臣賊子の最後に登場するのは新井白石です。
新井白石は、徳川6代将軍家宣と7代家継父子の将軍の7年間、幕政に参加して将軍を補佐した朱子学者で、5代将軍綱吉の幕政を改革するため、生類憐みの令を廃止したり、長崎貿易を制限して金・銀の流出を防ぐなど正徳の治と呼ばれる改革を行いました。
またその頃、朝鮮からの使者である朝鮮通信使を迎えるにあたって行う儀式を簡素に改めたり、いままで朝鮮の国書に「日本国大君」と記していたものを「日本国王」と改めさせました。白石はこれを朝鮮側に事前の相談もなく行うことにより、朝鮮に対する優位性を示します。また、国王には日本国の代表という意味がありますから、これには将軍の権威を高める狙いがありました。
彼が朝鮮公使と樽俎折衝せるを国威を発揚せしめたる功績なりとして教育者等の好で小学生徒に挙示しつつある所なりと雖も、是れ実は従来の慣例を破りて幕府自ら日本国王と号し、従来の公使の席次を下して三家の次ぎに置きしが為めに起りし紛議のみ。然るを尊王忠君と共に斯る大逆無道の乱臣賊子を鼓舞すとは誠に滑稽を極む。(第十一章P322)
このように、白石のやったことは幕府のことを、勝手に日本を代表する国王と言い表したり、これまでの慣習を破って朝鮮の意向を無視して公使受け入れの儀式を簡素化したに過ぎない、これだけのことを何で国威を発揚したなどとほめそやすのか、つまり白石はここで朝廷よりも幕府の方が上位にあることを示したのであり、白石もまた朝廷に逆らう乱臣賊子ではないか、ということです。こうして北による乱臣賊子の政治史の記述が終わります。
ああ今日四千五百万の国民は殆ど挙りて乱臣賊子及び其の共犯者の後裔なり。吾人は日本歴史の如何なる頁を開きて之が反証たるべき事実を発見し、億兆心を一つにして克く万世一系の皇室を奉戴せりと主張し得るや。(第十一章P324)
結論、皇室を主君として奉じてきたのは直接経済的従属関係にあった公卿だけであって、日本民族の全てはその他の家長や主君たちに従属して忠孝を尽くして皇室の乱臣賊子となっていたのである。古代・中世は血統主義と忠孝主義の歴史であるが、それは日本民族のそれぞれの家長や主君に対するものであって、そのために万世一系の皇室を助けていたとするのは全く誤りである。これが北による「国体論」批判です。
これを要するに、古代・中世において日本民族は皇室に対し、常に忠孝を尽くしていたと「国体論」はいうが、北によればそんなことは全くなくて、皇室とその他の豪族・貴族や武士たちは対等な関係で常に抗争しており、歴史的事実からみて皇統が万世一系だなどと言うことはできない、ということです。
確かに日本の歴史を概観すると、皇室が豪族・貴族や幕府から大事にされているといった印象はありません。北の「国体論」批判は実に小気味良く、切れ味鋭いものです。しかし一方、時の権力者は常に天皇家の外戚となるといったような形で朝廷とつながって勢力を拡大したり、自らの権力の正統性の根拠にしたりしています。また、天皇家はしっかりと脈々と血統をつないでいます。これはどういうことを意味するのでしょうか。
北はこれを「神道のローマ法王」たる天皇と「鎌倉の神聖ローマ皇帝」としての頼朝という比喩を用いて説明します。つまり、政治的な実験を握っているのは「ローマ皇帝」たる頼朝である一方、天皇は宗教的権威として存続し続けたということです。そして天皇家もまた一人の君主として臣下をもっていたが、それは極めて弱小で、時の権力者が恐れるほどではなかったので、かえってそのまま放っておかれたということです。
天皇家は弱小ながら、貴族階級(天皇以外の豪族・貴族から幕府まで、政治的権力を握る者を北はこう呼んでいます)と同等な君主であると同時に、わが国唯一の宗教的権威であるという二重性においてとらえています。この分析はとても見事だと思います。
ここには明治維新において天皇が果たした役割の根拠が示されています。すなわち天皇は「神道の祭主」であることが、他の貴族階級と決定的に異なります。この「原始宗教の祭主であった天皇」の血統主義は他の貴族たちの及ばないところであり、さらに天皇家は強大な力を失っていただけにかえって権力抗争を免れることになり、日本の歴史において高尚な道徳を保持し得た、と北は考えます。
こうして「神道の信仰よりしたる攘夷論が其の信仰の経典によりて尊王論と合体」することになります。ここには、明治維新において天皇制が前面に現れてくる姿が鮮やかに表現されていると思います。
特に其の排外的信仰なる点に於て、長き間を海洋に封鎖せられたる日本民族にとりては恰も猶太教(ユダヤ教)と等しき意味を以て国家起源論として考へられたりき。即ち我が民族のみ特別に神の子にして他は夷狄なりとは凡ての民族が近き以前までの信仰なりしがごとく、日本民族も等しく斯かる信仰の神道を幕末に至るまで脱却する能はずして尊王攘夷論となり…(第十三章P355)
ここまでは、日本の歴史を正しく見ればそれは天皇に対する乱臣賊子の歴史だっただろう、といういわゆる「国体論」批判です。歴史の解釈の面白さをまざまざと見せつけられる思いです。「国体論」が時代を席巻する中、これだけの権力批判を堂々と行うことのできた北の<確信>は、まさに驚異といえます。
2 国体とは何か
(1)定 義
国家の本体のこと。統治権の主体であるか、主権に統治される客体であるか、という主権の所在による区分であり、国家の本質を決定するもの。
①<家長国>=統治の主体が国家の外にあり国家を統治している、すなわち国家が統治される客体となっている国家。
②<公民国家>=国家が統治の主体であり君主も貴族も国民も統治の客体となっている国家。
北の国体論は、統治権の主体が国家にあるか否かによる分類です。主権が君主にある場合には、君主が自己の目的と利益のために国家を統治し、利益は君主に帰属します。このとき君主は土地と人民を統治する主体であり、土地と人民は君主が所有していることになります。
これに対し主権が国家にある場合には、国家が国家自身の目的と利益のために国家を統治し、利益は国家に帰属します。このとき国家は土地と人民を統治する主体であり、土地と人民は国家が所有していることになります。分類の基準が「国家が統治権の主体であるか客体であるか」にあるわけですから、北の国体の分類は2種類となります(9-3)。
(2)日本の国体
この国体論を日本の歴史にあてはめると、古代と中世は<家長国>、明治は<公民国家>となります。<家長国>における統治の主体は家長君主であり、<公民国家>においては国家が統治の主体です。
<家長国>における家長君主時代はさらに二期にわかれ、古代においては「天皇」、中世においては「将軍・諸侯・天皇の各々凡てが統治者」(13章P373)とされます。北は、政権に対する意識というのは歴史的進化に従って次第に拡張していくと考えています。君主である天皇一人が政権に覚醒した第一期から政権の覚醒が貴族階級に拡張した第二期へ移り、この覚醒が大多数に拡張した第三期において国体は<公民国家>へと生まれ変わります。
時代区分 | 古 代 | 中 世 | 現 代 |
時 代 |
飛鳥~平安 |
鎌倉~江戸 | 明 治 |
国 体 |
家 長 国 |
公民国家 | |
統治の主体 |
家 長 君 主 |
国 家 | |
天 皇 |
将軍・諸侯・天皇 | ||
統治の客体 | 国 家 |
国 民 |
この三期にわたる政権に対する覚醒拡張のプロセスをわかりやすく理解するために、以下のような図を使って考えてみます。(この図は滝村隆一氏の国家論を援用しています)

古代において頂点にあるのは天皇家であり、三角の斜線の部分が天皇にあたります。その下に中央・地方の豪族がありそれぞれに長がいますが、「政権に覚醒」しているのは天皇一人という構造にあります。「政権に覚醒」しているというのは、自分が国家を統治している主体であるということに自覚的である、といった意味かと思います。
藤原氏時代の終るまでは天皇は日本全土と全人民を「大御宝」として所有する家長君主として、例へ事実上は摂政関白の専横ありしと雖も、又例へ事実上は統治権の行使されたる所が近畿地方の狭小なる区画たるに過ぎざりしと雖も、天皇が唯一の君主として唯一の政権者たりしことは法律上疑ひなき所の者なりき。是れ権力の一人に覚醒したる進化の第一期なり。(第九章P274)
この時期、藤原氏によ摂関政治があったり、事実上統治権を行使していたのは全国でなく近畿地方に限られていたけれども、天皇は唯一の君主であった、ということが言われています。そして天皇が唯一の権力者であった古代に続いて、政権に対する意識が拡張する第二期がやってきます。
平安時代末期より地方豪族が武士となって権力を握りました。鎌倉時代には源頼朝が幕府を開きますが、一方朝廷もまだ力を持っており、地方に国司を派遣し領土も多く所有しています。さらに貴族や寺社も荘園を保有していたように、さまざまな階級が統治権をもっていました。ここでは図の右側に幕府側の組織を、左側に朝廷側の組織を入れてあります。

其等の家長等が各々統治権を有するに至れるは諸侯階級即ち貴族階級に政権の覚醒が拡張さられたる第二期の進化なり。(第九章P275)
北の国体論からすると、武士の時代の始まりは政権の意識がそれぞれの家長にまで拡大する時代の始まりとなります。
続く戦国時代においては戦国大名が日本を支配し、各領国は独立国家の様相を呈します。戦国大名はまさに政権に覚醒して覇権を争ったわけです。一方、天皇家は勢力を欠き権力抗争の表舞台からは姿を消していきますが、日本の歴史をとおして常に統治者の一人であり続けました(13章P376)。

この長い覇権争いを制覇した徳川家康が幕府を開くと、諸藩を親藩・譜代・外様と構造化し、士農工商という身分制をひき、鎖国政策の中で260年あまりにわたる安定した国家運営を行いました。

このように権力のあり方は時代の変化とともに形を変えていきますが、君主が統治の主体であり国家は統治の客体であるという国体としてのあり方は中世を通じて同様であり、さらに構造としては古代とも共通しています。しかし明治維新を迎えると、政権に対する意識はさらに多くの国民に拡張します。
維新革命は無数の百姓一揆と下級武士の所謂国体論によりて貴族階級のみに独占せられたる政権を否認し、政権に対する覚醒を更に大多数に拡張せしめたる者にして、「万機公論に由る」と云ふ民主主義に到達し、茲に第三期の進化に入れるなり。(第九章P275)

これまでの時代は、一人か複数かの違いはあれ、家長だけが政権の意識を持つ存在でした。しかしこの時代は全ての国民が政権の意識を持つようになったという意味で、それまでの歴史と本質的に異なります。これが公民国家です。明治に至り我が国は初めて一部の権力者が国家を支配していた時代から、国家が主権者となる時代になりました。
普通、近代国家とは国民が主権者の国家(国民が統治の主体)であるとされます。北もまた明治時代に入ると政権に対する覚醒が国民に拡大したと言っています。しかし統治の主体は国民ではなく国家にあるというのが北の考えです。 言い換えれば<公民国家>と国民の関係、ここが北の思想を理解する鍵を握るところだと思います。
(3)<公民国家>と国民
図5においては、国家が統治の主体であり、天皇も国民も統治の客体です。明治維新以降の天皇は、古代・中世のように、国家を所有して国家の外に立つ存在ではなく、美濃部博士が広義の国民に含めたように、他の国民同様国家の一分子であり国家の機関である、と北は言います。
天皇は土地人民の二要素を国家として所有せる時代の天皇にあらず。美濃部博士が広義の国民中に包含せる如く国家の一分子として他の分子たる国民と等しく国家の機関たるに於て大なる特権を有すと云ふ意味に於ける天皇なり。(第九章P277)
さらに北は、<公民国家>における国民は、国家がその目的と理想にむけ、あたかもダーウィンの進化論のように進化していくことをすべての分子=国民が意識しており、さらに自分が国家の部分であり自己の利益のために他者を手段としないという高い道徳をもった国民である、ということを言っています。<公民国家>における国民は、<家長国>における国民ではなく、言ってみれば進化した国民となっています。
実に公民国家の国体には、国家自身が生存進化の目的と理想とを有することを国家の全分子が意識するまでに社会の進化なかるべからず。即ち国家の分子が自己を国家の部分として考へ、決して自己其者の利益を目的として他の分子を自己の手段として取扱ふべからずとするまでの道徳的法律的進化なかるべからず。(第十四章P385)
このように北にとって国家とは人類という分子によって構成される一つの生命体のようなものであり、生き物のように存在し進化していくイメージがあるようです。そこでは、国家と個人は限りなく同じものであるように描かれています。
国家とは空間を隔てて人類を分子とせる大なる個体なり。即ち個体其れ自身の目的を有して生存し進化しつつある継続的生命を有する個体なり。(第九章P257)
個人とは空間を隔てたる社会の分子なるが故に而して社会とは分子たる個人の包括せられたる一個体なるが故に個人と社会は同じき者なるを以てなり。…一個体は個人たる個体としての意識を有すると共に、社会の分子として社会としての個体の意識を有す。更に換言すれば、吾人の意識が個人として働く場合に於て個体の単位を個人に取り、社会として働く場合に於て個体の単位を社会に取る、吾人が利己心と共に公共心を、個人性と共に社会性を有するは此の故なり。(第五章P123)
これを図に表してみます。

個人とは空間を隔てた社会の分子であり(A)、社会とは分子である個人をその中に含んだ一つの個体である(B)から、個人と社会は同じものである(A=B)。個体は個人としての意識をもつとともに(A’)社会の分子としての意識を持っている(A)。さらに言い換えれば、私たちが利己心や個性をもつときは個人として存在し(A’)、公共心や社会性を働かせるときは社会として存在(A=B)している。
ここで言われていることは以上のようなことだと思われますが、A=Bという部分がわかりづらい点なのでもう少し考えてみます。
北によれば、個人には「個人である個体の意識」と「社会の分子としての個体の意識」という二重性があり、個人である個体としては利己心や個性をもち、社会の分子としては公共心や社会性をもっている存在です。さらにその個人としての個体というのは、社会の分子としての個体と同じものであることから、その利己心は利己的な利己心ではなく「自己が社会の部分なることを意識する社会的利己心」である(14—1)、という言い方もしています。
北の頭の中では、国家と社会と個人(社会的利己心をもつ進化した個人)がイコールになっている感じがします。そう考えると、国家に主権があるというのもうなずける気がします。つまり、この時の個人の意識は社会性を100%孕んだ意識であり、そうした意味で社会=国家と等しいということです。そうであるならば、国家に主権があるということは、実際には「国家=社会=個人」としての個人に主権があるということと同じ意味になるということではないでしょうか。
私たちは通常、個人が社会の単位であり、個人の利害が衝突することを調整するために契約を結び社会を形成している、といった考えをもっています。もちろんそういった面もあるでしょう。しかし、北には、個人と社会は最終的には一致する、という理想があります。これは個人が社会に従属するということではありません。北は個人の能力が最大限発達しなければ社会主義は実現しないと言っていますから、単に個人より国家が優先すると考えているわけではありません。個人が最終段階まで進化した時に社会と一体化する、すなわち個人=社会=国家になる、といったイメージかと思います。
この北の「個人=社会」観は、現実には個人が社会に飲み込まれる危険性をはらんでいますが、「個人と社会の調和」という人類の最終イメージは、現代社会にとって、とても必要なことだと思います。この最終イメージは、時間的将来を指すだけでなく、今現在においても常に追求すべきテーマだと考えます。
3 北の革命論
さて、明治維新は、1500年続いた<家長国>を<公民国家>へと大きく転換させ、法的には社会主義国となり、北の理想とする国体となりました。すると残された<革命>の課題は何になるのでしょうか。北にとっての<革命>とはいかなるものであるかが最後に問題となります。
初めに北の<革命論>ですが、北によれば革命とは「思想の組織を完全に違うものにする」ことをいいます。
社会民主主義の革命と云ふは、…個人が社会の部分として部分の全体たる社会を財産権の主体たらしむる共産制度の世界たらしむる別思想系に転ずことに在ればなり。(第十五章P431)
ここに出てくる「個人が社会の部分として部分の全体たる社会」という表現こそ、北の社会主義(=国家に主権があるという考え方)の核心となる考え方です。北の社会主義とは、社会が利益の源泉であり、かつ利益の帰属する所であるという考え方ですから、これを経済にあてはめれば、一部の階級が利益を独占している現状に対しては、この独占階級を打倒し利益を全ての国民に分け与えなければならない、という考え方が出てきます。この<革命論>を明治23年の状況にあてはめて考えてみます。
北は、明治23年の帝国憲法により、我が国は完全に国家の目的と利益のために主権を発動する<公民国家>となったととらえています。しかしながら憲法が整備されたという理論的な「法理学上の国家」と、事実論としての「政治学上の国家」とは異なるものであり、明治国家は法律の上で国家の理想を表しているが、その理想がどのように実現されているかは別の問題であると言います。 (15—1)
北が目にしている現実は「貧困と犯罪」が満ち溢れた社会でした。そしてこの「貧困と犯罪」をもたらしているのは「経済的貴族」=大資本家・大地主による「略奪」のせいだと言います。
今や資本によりて他の資本家と小有土農とを併呑せる経済的家長君主等は往年の其等に代りて国家の機関を自家の階級の恣に取扱ひつつあり。…貴族政治は明白に存す。何処に維新革命ありや。…維新革命によりて得たる国家は何処にありや。…維新革命の社会民主主義の法律の上にのみ残して国家は中世に逆倒せり。(第十五章P420)
注)小有土農;小作農のことか、経済的家長君主;大資本家・大地主のこと
そこで第一革命である維新革命に続く第二革命とは、帝国憲法を現実のものとするための「経済的維新革命」と位置付けられます。具体的には土地と資本の公有化です。
(第二革命の目的は)法律の上に表はれたる国家の主権を以て多くの経済的君主等が其れぞれ自己を利益の帰属すべき主体して経済的源泉を私有しつつある経済的貴族国を革命して経済的公民国家に至らんとすることに在り。(第十五章P419)
ここで目指されていることは「法理上個人に分割されて存する私有財産を(而しながら事実は経済的貴族階級に占有せられたる社会の上層部分の私有財産を)社会全部分の共同所有に移すこと」(第十五章P450)です。具体的な政策論はのちの「日本改造法大綱」を待たなければなりませんが、これが北にとっての<革命>でした。
それでは、こうした革命を実現するのはどのような方法によるのか。それは投票をもって行うのだ、というのが北の主張です。ちょっと拍子抜けしてしまいそうですが、北は明治維新を、君主国を打倒し民主的な公民国家とした革命であるとらえているので、暴力によって支配層を倒しても国家の変革はできないという考えなのです。
すなわち、これが君主国であれば具体的な君主の誰それが暴政を行っているわけですから、その君主を打倒すれば政治は変わるでしょう。しかし<公民国家>とは国家が主権者であり、支配者といえども国家に従属している存在ですから、具体的な支配者の誰それを倒しても国家の本体は変わらないと北が主張するのは、その国家論からくる理論的必然なのです。国家は、国民=社会=国家という意識に進化した国民による投票によって純正社会主義の国家となっていく、というのがこの段階での北の理論となっています。
北は日本における維新革命は普通選挙権があれば実現できるとしています。「投票は経済的維新革命の弾丸であり、普通選挙権の獲得は弾薬庫の占領である」とまで言っています。北が「国体論」を書いてからおよそ10年後、北の主張どおり25歳以上の全ての男子に選挙権を与える普通選挙法が成立しました。しかしその後、時代を動かしたのは投票ではなく実際の弾丸でした。北自身も弾丸に飲み込まれたと言えるでしょう。北が亡くなってから80年がたちます。しかし投票が弾丸となった経験を、私たちはまだ持っていません。私たちはいまだ北の理想への途上にあるといえます。
*引 用 「北一輝 自筆修正版 国体論及び純正社会主義」ミネルヴァ書房
*参考文献 「増補版マルクス主義国家論」滝村隆一著 三一書房
「北一輝」渡辺京二著 筑摩学芸文庫