長野正義

 

1 長野正義と教育

 
 長野正義は明治33年11月3日、当時の鎌倉郡川上村舞岡、今の横浜市戸塚区舞岡町に生まれました。父房吉は長野良淳の長女ヨシと結婚して養子となり、山田姓から長野姓となります。正義の姓はここからきています。父は鎌倉郡阿久和小学校の校長、父の兄弟5人のうち、兄と弟もまた小学校の校長という、教育一族でした。長野は父が校長であった鎌倉郡阿久和小学校尋常科6年を卒業したのち、隣村の中和田小学校高等科へ入学しています。以下、長野の学歴と職歴を、学制の変遷と一緒にみていきます。
 
 明治時代になると近代的な教育制度が出来ていきますが、当初その制度は目まぐるしく変わっていきます。小学校についてみると、大きくは次のような変遷をたどります。
 
 

明治05年  学制公布    下等小学校4年+上等小学校4年 計8年
明治19年  小学校令    尋常小学校4年+高等小学校4年 計8年  *尋常小学校は義務制
明治40年  改正小学校令  尋常小学校6年+高等小学校2年 計8年  *尋常小学校は義務制

 
 
 長野が通った小学校は、改正小学校令に基づき義務教育が6年となった尋常小学校にあたります。なお、尋常小学校は明治19年の小学校令において各町村に設置することとされていましたが、高等小学校は各郡に一、二校の設置とされていたので、高等小学校へ進むためには、高等科のある小学校へ入学したのでしょう。法令上高等小学校とありますが、実際には尋常科だけの小学校と尋常科と高等科の両方ある小学校があったようです。
 
 その後長野は、神奈川県立横浜第一中学校(通称;神中)で1年間学んだ後、「鎌倉の師範学校」へ進学します。
 
 師範学校とは小学校教師を養成する学校で、神奈川県においては明治9年に横浜師範学校がつくられ、明治19年の師範学校令により神奈川県尋常師範学校となっています。この学校の校舎は当初横浜の野毛にありましたが、明治23年に火災にあい、明治25年鎌倉の雪の下に移転しています。その後、神奈川県尋常師範学校は明治31年の師範教育令において神奈川県師範学校とされます。この学校が長野が学んだ師範学校です。
 
 この「鎌倉の師範学校」を経て、長野は戸塚小学校訓導(教員のこと)を1年経験し、その後休職扱いで「広島の高等師範」へ進学しています。
 
 明治5年に官立の学校として東京に設立された師範学校は、その後、明治19年の高等師範学校令において師範学校教員と中学校などの教員を養成する高等師範学校となり、明治35年には広島に第二の高等師範学校が設置されました。長野の通った広島高等師範学校がこれです。
 
 広島高等師範学校を大正14年3月に卒業した長野は4月から、自身が学んだ横浜の神奈川県立横浜第一中学校に勤務し、その後20年にわたりここで教鞭をとることになります。
 
 長野が着任した神奈川県立横浜第一中学校(神中)は、明治30年に開校した神奈川県尋常中学校を前身としています。尋常中学校とは明治19年の中学校令において規定されたもので、この時に中学校は5年制の尋常中学校と2年制の高等中学校の二段階に区分されています。その後、神奈川県尋常中学校の校名は以下のような変遷をたどります。 
 
 

明治32年「神奈川県中学校」      第二次中学校令において、「尋常中学校」が「中学校」となったことに伴う
明治33年「神奈川県第一中学校」    県下で2校目の中学校が小田原に出来た(現在の小田原高等学校)ことに伴う
明治34年「神奈川県立第一中学校」   「学校の名称に何々立の文字を冠せしむ」との文部省令による
大正02年「神奈川県立第一横浜中学校」 横浜に第二横浜中学校が出来た(現在の翠嵐高等学校)ことに伴う
大正12年「神奈川県立横浜第一中学校」 横浜に第三中学校が出来た(現在の緑ヶ丘高等学校)ことに伴う

 
 
 このように、明治の後期から大正にかけて中学校(現在の高等学校にあたる)が順次開校していく様子がわかります。県内においては、現在の校名で言うと希望ヶ丘高校・小田原高校・厚木高校と続き、横浜においては、希望ヶ丘高校・翠嵐高校・緑ヶ丘高校と続いています。なお、現在の希望ヶ丘という校名になるのは戦後、昭和25年のことです。
 
 長野は、神中に20年間勤務しましたが敗戦を機に辞めています。長野が勤務した大正14年から20年間といえば、満州事変から日中戦争を経て太平洋戦争へと至る戦争の時期にあたります。戦時的色彩がだんだん濃くなり、教育は「皇国の道」に基づき「皇国民の錬成」が最高目標となり、学生・生徒たちが戦争に巻き込まれていった時代です。おそらく長野の教え子たちも、学徒勤労動員として決戦体制に総動員されたと思われます。こうした体験が長野の辞職を促したのでしょう。このときの心境を長野はこう記しています。
 
 

二十年の永い間、神中の教員として甘んじていたというよりは、多分に心惹かれて勤めていた私が、なぜ急に神中を去ろうと決意したか。それは、敗戦によって、教育者として耐えがたいむなしさを感じたからである。場をかえて考え直そう出直そうと思った。(「敗戦直後の教育」)

 
 折から、逗子小学校の片隅にある小さな高等女学校の校長の話が舞い込み、長野に横須賀市立逗子高等女学校長の辞令が出ます。高等女学校とは、女子を対象とした中学校に相当する学校で、「良妻賢母たらしむる」教育が行われた学校です。
 
 

戦争中、勤労動員されてパラシュート工場で働いていた女子生徒が学校に戻ってきた。英会話を学んだり、新憲法の講義を聞いたり平易に説かれた文学論・演劇論に共鳴したり、午後はグループ活動として、演劇の指導を受けたりピンポンやバレーボールの練習をしたり、古い小さな校舎、狭い校庭ながらも若やいだ歓声があふれていた。(「敗戦直後の教育」)

 
 戦争から解放され心はずむ女生徒たちが活動する姿を見て、新しい世の中で再び教育の仕事にたずさわる喜びを感じていたであろう長野でしたが、新たな出発となるべきこの立場は長く続きませんでした。着任から1年8ヶ月後の昭和22年4月、長野には新たに新制中学校の校長の役が与えられることになります。不入斗中学校校長です。
 
 義務制の新制中学校は、昭和21年3月31日提出の米国教育使節団による勧告と、これに関するマッカーサー元帥の声明によって制定された新教育制度の施行により、準備期間を置くこともなく実施されます。不入斗中学校の校舎には、不入斗陸軍重砲兵連隊兵舎が使われました。長野としては「逗子女高の和やかな教育的雰囲気から離れたくない」という気持でしたが、「未来の教育を開拓すべく」新制中学校長を受諾することになります。
 
 豊島小学校・鶴久保小学校・田戸小学校の学区をまとめた地域が入中の学区でした。金も時間もない状況で、学校は市民の人たちの寄付や善意によって準備されていきます。開校に向け、後援会の役員が大工を集めて暗い兵舎の改造をしたり、父兄が大掃除をしたりして、町ぐるみで準備をしています。また、開校した当初は教科書も机もない中で、小さな黒板で教師が授業をしたり、午後は作業の時間として使い古しの壊れた机や椅子を生徒が修理したりと、教師・生徒・親・地域の人たちが協力して開校にあたっています。
 
 

新教育制度がたとえ占領軍の指令によるものとはいえ、新制の中学校発足にあたって、先生や父兄が打ちこんだ情熱は、これからの日本のために新しい教育を開いて行こうという心から出たものと感じた。(「新教育制度の中学校」)

 
 しかし開校して3ヶ月後、今度は横須賀市教育部の辞令を受け、9月から教育部学務課長を命ぜられます。学校現場から教育行政への異動です。ここでの長野の仕事は市内に新しい学校を整備していくことでしたが、それに加えて翌年の昭和23年9月には「教育研究所」を田浦中学校内に開設しています。現在久里浜にあり、教員の研修や研究事業を行っている横須賀市教育研究所です。長野が市長を退任する際、「教育センター」を作ることが念願であったという心情を吐露していますが、ここにその萌芽があります。長野は教育の仕事が好きだったのです。
 
 さらに昭和24年6月からは教育部長に昇任します。その結果、新たに発足する教育委員会制度において教育長となります。
 
 教育委員会法は昭和23年7月15日に公布され、都道府県と5大市においてはその年に、市町村においては昭和27年11月1日に、教育委員会が発足しています。「この法律は、教育が不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきであるという自覚のもとに、公正な民意により、地方の実情に即した教育行政を行うために、教育委員会を設け、教育本来の目的を達成することを目的とする。」とあるとおり、市町村においては5人の委員のうち4人は住民が選挙し、残り1人の委員は、議会の選挙により選出される仕組みでした。
 
 横須賀市でも公選で選ばれた4名と市議会選出の1名、合わせて5名の教育委員と事務局の長である教育長による教育委員会が発足しました。この時の市長は石渡直次であったが、昭和28年7月に選挙があり、元市長の梅津芳三が再選されて復活しています。梅津は昭和21年11月、戦前の大政翼賛会の支部長に就任した市町村長などを政府が追放する指令(第二次公職追放令)に該当することから、22年1月に辞任していました。
 
 この梅津市長との関係について、「梅津市長は健全財政確立のため強い緊急政策をとった。教育委員会としてもこれに同調したが、次の二点については、その継続を主張した。」と以下のエピソードを伝えています。次の二点とは、校舎警備委託費と校舎改造計画です。当時横須賀では市立工業学校、不入斗中学校、鶴久保小学校と火事が続き、校舎警備の対策が求める声が強くあがっていました。
 
 

私はPTA役員と協議して、全市の学校で、それぞれPTAが不寝番を傭い、市がその経費をPTAに交付するということにして、既に二年継続実施してきた。私は教員の宿直をもって足れりとする市長の主張を拒否した。(「教育委員会の発足」)

 
 また、横須賀市では、軍用建物を一時的に改造した教室や老朽化した校舎が多かったため、石渡市長のときから鉄筋コンクリート改造の年次計画をたて、校舎改造に取り組んでいました。
 
 

緊急政策実施のときであり、古いものでも使え勿体ないではないか、という梅津市長の言葉であった。勿体ないという言葉には私も心打たれるものがあったが、改造計画は教育上緊要であり、かつ国の補助政策に乗り遅れては悔を残すことを縷縷述べて理解を求めた。(「教育委員会の発足」)

 
 こうした中、政府は昭和31年3月、教育の政治的中立と教育行政の安定を確保するという理由で、教育委員を公選から議会の同意による任命制に変える新たな法律を提案し、強行採決を行います。「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」、略して「地行法」です。教育委員会法においては住民による公選とされていた教育委員選出の方法が、この法律では、地方公共団体の首長が地方議会の同意を経て任命する方法に改められました。
 
 

朝令暮改というか、僅か一期、四年足らずして教育委員の公選制は消えて、市議会の同意を得た市長の任命制となり、教育長も教育委員の中から選ばれることになった。昭和三十一年九月三十日、私は教育長の職から消え去った。(「教育委員会の発足」)

 
 長野が教育長を辞めた翌年の昭和32年7月、横須賀市長選が行われました。このとき現職の梅津に対して、あるきっかけがあり、長野が対立候補として立候補することになります。これが長野の政治家としての人生のスタートとなりました。

 

2 長野正義と政治

 
 昭和32年7月8日、44、409票対33、185票、前市長梅津芳三に1万票を超える大差で長野が市長に当選しました。長野を市長候補に選んだのは、神中の教え子で当時衆議院議員であった飛鳥田一雄でした。長野が神中の教員時代、障害のある生徒が受験を希望してきます。周囲は前例がないと反対しますが、長野は自分が担任となり責任を持つ、と発言したことで受験が可能となりました。
 
 その生徒は、後に横浜市長・社会党委員長となる飛鳥田一雄であった、というエピソードは有名です。確かに飛鳥田一雄が杖をついて歩いていた姿は当時を知る者には印象的な記憶として残っていますが、いくら戦前とはいえ、足が少し不自由だという理由で入学できない時代であったのかといささか驚きです。しかし事実こののち飛鳥田が旧制水戸高等学校を受験した際には、左足の障害を理由に入学できなかったということですから、長野の決断は画期的だったのでしょう。
 
 この時、長野は社会党に押される形で立候補しますが、社会党に対して条件を二つ出しています。
 
 

昭和32年4月末頃と思うが二つの条件を出した。今日から考えるとむちゃくちゃと思われるが、当時の私にとっては必須の条件であった。一つは選挙に要する費用は出せない。二つは社会党の政策に拘束されないということである。「よろしい」ということで遂に市長立候補を表明した。(「立候補の経緯と当選後の心境」)

 
 梅津対長野の戦いは、「官僚出身の現職市長として中央と直結した開発発展策」を展開する梅津と、「独善的官僚市長打倒」「市民と膝を交えて語り合う市政」を呼びかける市民市長との戦いであり、「保守の現市長と革新の前教育長との一騎打ち」という構図でした。そして長野は日教組をはじめ、市内の労働組合や進歩的な市民の支持を受けて大差で当選しま
す。
 
 

横須賀市の市長選においては、地方自治革新のために労働者が立ち上がり、固き団結の力をもって、いかにも清新な生々しい運動を展開し、保守勢力の強い米軍基地のある都市に革新市長を誕生せしめた。(「立候補の経緯と当選後の心境」)

 
 長野は自身このように述べています。しかし、この「革新市長」というレッテルが、のちに長野を苦しめることになります。
 
 

社会党推薦で当選した市長であるから、軍備反対・アメリカ海軍基地撤退の旗印を掲げて戦うであろうと、当時はそう思う人もあったようだ。しかし私はさようなことを主張して立候補したのではない。また基地のある市の長となって基地否定の行動をとることは、自己否定につながるものと私は考えている。私は防衛基地のある現実に当面しつつ独自の市政運営を計る決意をした。(「防衛基地における革新市長」)

 
 「現実に当面しつつ」とあるように、長野市政が最も中心的に取り組んだ課題は、米軍接収施設と区域の解除運動でした。長野自身、基地を持つ市長にとって避けられない重い課題として次の三つをあげています。
 
 

① 収地の解除促進を計るため、断えず運動を進め、執拗に当局に要請すること。
②軍の施設の閉鎖乃至変化に伴い、従業員の大量の解雇が行われるため、軍転法により返還された土地に企業を誘致し、離職者の受け入れを計らせること。
③接収地が解除され、国に返還された地域について、国が利用する計画、特に防衛庁の計画と、軍転法による本市の転換計画との競合。(「追浜地区の転換計画と横浜市との境界紛争」)

 
 長野が市長になった翌33年、「武山地区の米陸軍武山キャンプ・マギル跡地が日本政府に返還」され、翌34年にかけて、「 追浜地区の米陸軍特需会社日本飛行機(株)・同富士モータース(株)・米陸軍追浜兵器廠が閉鎖」 され、接収地が解除されています。
 
 市のホームページによれば、平成27年3月11日現在、横須賀市内の米軍関係施設は3施設4か所、面積335万9千平方メートルとなっています。これに対し、「長野市政期の32年10月〜48年3月まで返還された施設は40施設区域、総面積は610万0804㎡に及ぶ」(「新横須賀市史」)となっています。すると現在残された施設のおよそ2倍近い面積が長野市政期に返還となっています。またこれは、昭和27年6月6日の秋谷返還から平成25年10月11日の吾妻倉庫地区の一部返還までの総面積のうち、なんと約90%にあたります。つまり、敗戦後から現在までに米国から返還された土地の90%は、長野市政の尽力によるものだ、ということになります。(市HP「提供施設の返還状況」)
 
 基地をもつ市長にとって避けられない重い課題として長野が一番に挙げている「接収地の解除促進を計るための執拗な当局への要請」について詳しく見てみます。まず、長野が考える具体的な返還要求の構想は次のようになっています。
 
 

① 久里浜倉庫地区を基幹産業地域とする。
② 追浜地区の未解除部分とその地先である米軍の制限水域を解除して埋立て、工業地域を完成させる。
③ 船修理部は現在の従業員を吸収した企業組織として再編成する。
④ 衣笠弾薬庫を中央公園墓地とする。
⑤ 武山射撃場を学校・公営住宅・公園用地とする。
⑥ 比与宇の火薬庫は米海軍接収地に集約整理し長浦港の公共野積場とする。
⑦ その他、EMクラブ・長井住宅地区の接収解除を求める。

 
 しかしこうして返還された施設や土地は国に返還されるのであって、横須賀市にあるからといって必ずしも横須賀市に返還されるというわけではありません。市としては、今度は国に対して返還要望をすることになります。国とても返してもらえるなら、自分のところで使いたいと思うでしょう。ここに国と市の確執が生まれます。長野が三つの重い課題としてあげた最後の課題がこれです。
 
 

私はこの勝負7対3でもやむを得ない(もちろん当方が7)と口をすべらして、社会党が怒ったとかいう。保守派は、また相談もなく勝手にやりすぎると難癖を付けるが、こんな交渉ごとに、いちいち相談できるものではないと思った。この調子が、次にとんだ危機を招くことになった。・・・昭和46年11月25日、市議会に再び諮問して同意を得た。革新派は依然反対した。(「提供施設の返還と防衛施設の集約移転」)

  
 7対3とは、米軍から返還された土地の、市と国の配分のことです。市の取り分が7で国が3なら上々だと思えますが、「絶対反対」の立場からすると、これもで許せないことになります。しかし、7を取るために3を取られることは「やむを得ない」という長野のこの感覚は、政治家としてとても妥当だと考えます。そして結果が伴えば、なおさらのことです。試しに⑤武山射撃場120,102㎡の返還状況を見てみると、次のようです。
 
 

国 (約20%)    

河川 3,043 ㎡ 防衛庁宿舎 21,078 ㎡  計24,121㎡

県(約11%) 

県立養護学校 13,020 ㎡         計13,020㎡

市 (約69%)   

武山中学校 22,030㎡ 西部公園 49,976 ㎡ 市道敷 10,955㎡  計82,961㎡

 
 
 これを見ると、市の取り分は約69%。使途は学校に公園と、まさに長野の思惑とドンピシャリです。さらに県に譲与された施設は横須賀市民が利用する県立学校となっており、これを含めれば約80%が市民のものとなっています。
 
 また、保守派が「相談がない」と難癖をつけるのも、それに対して「いちいち相談なんかしていられるか」という反応も、いずれもその立場を考えればよくある話でしょう。今回は施設の返還の話であったから最後には、革新派の反対を受けながらも市議会でも同意を得られましたが、次はそう簡単にはいきません。ここで長野がいう「次の危機」とは、空母ミッドウェイの母港化の問題です。この間のいきさつを時系列に沿って追っていくと次のようです。
 
 

昭和47年09月19日  

地司令官カリア大佐、在日米軍司令官バーク少将、太平洋艦隊支援部司令官アームストロング少将と市長・長野、商工会議所会頭・小佐野皆吉が会談。バーク少将から第七艦隊麾下の空母ミッドウェイが横須賀をホームとし家族を居住させたいとの提案がある。

昭和47年09月20日  

小佐野会頭が市長公舎にバーク少将の伝言をもって来訪。内容は、追浜の制限水域を解除するから空母ミッドウェイの寄港と家族居住を認めるか、市長の内意を聞きたいとのこと。

 

昭和47年09月22日  

在日米軍司令官バーク少将、参謀長フルイン大佐と会見し、米軍は追浜地先制限水域を無条件で解除する、市は空母ミッドウェイの基地として家族が居住する、このことを相互に認める。

昭和47年09月25日  

市議会定例会本会議において、基地問題の質疑の折に空母母港化承認について議会に告げる。

 

昭和47年10月25日  

横浜防衛施設局長が来訪し、追浜・久里浜・衣笠に加え、武山も横須賀市に譲与する旨伝えてくる。

昭和47年11月27日  

本会議において、空母母港化・艦船修理部共同使用反対の意見書を23対22で否決。

昭和47年12月11日  

日米合同委員会にて、追浜地先制限水域を解除することを決定。

昭和47年12月15日  

本会議において、空母母港化反対の請願について採決し、22対22で同数、議長が不採決と決定する。

 
 
 この流れを見ると、空母ミッドウェイの母港化と米軍施設の返還は、明らかにリンクしています。長野の肚は初めから決まっているので、提案があってから相互に認めるまでわずか4日です。事実長野は次のように述べています。
 
 

私は空母ミッドウェイが横須賀をホームとし家族を居住させることを認めて、追浜・久里浜・衣笠武山地区約269万平方米をもらうのが、横須賀の将来のため得策だと考えたから取り引きしたと言う外ないと肚を決めた。(「空母ミッドウェイの母港化問題」)

 
 この取り引きが7対3といえるかどうか、母港化と施設の返還は単純な比較の対象にはならないので意見の分かれるところでしょうが、少なくとも長野の判断はこのようなものでした。
 
 

長野はこの空母母港化についても「一隻ぐらいは」との発言を行い、これが横須賀市常任委員会で追及されると「空母の母港化に踏み切ったのは百万平方メートルにのぼる追浜工業団地造成のカギとなる制限水域の解除にある」あるいは、「軍転法に基づく市の転換事業を推進するにはこの機会を逃してはならない」と釈明した<『神奈川新聞』昭和47・10・4、10・14、11・23>。長野は空母母港化に対する反戦運動より都市開発事業を優先させる姿勢を示したのである。(「新横須賀市史第4編第2章戦後市政の展開」)

 
 <政治>は<運動>ではなく、<都市開発事業>そのものは<政治>ではありません。長野がやったことは、ミッドウェイの母港化と引き換えに、「追浜・久里浜・衣笠武山地区」の土地や施設を取戻し、「追浜工業団地造成のカギとなる制限水域の解除」を得る、という<政治>を行ったのです。何かを得るためにはなにかを捨てなければならない。この判断が<政治>です。
 
 しかし<政治>は<運動>の関数でもあります。母港化阻止の<運動>があったからこそ、米軍は「交換文書にある追浜・久里浜・衣笠地区に加え、まだ内部の決着をみなかった武山も、横須賀市に譲与する旨を伝えてきた」とみることもできます。<政治>が欠如した<運動>が何らの成果を生むことなく終焉していくことは歴史の教えるところです 。母港化阻止の<運動>は、長野正義という政治家によって、広大な土地を取り戻すという成果を得たと見ることもできます。
 
 

ミッドウェイ母港化前後の施設の返還状況(横須賀市ホームページ「提供施設の返還状況」より作成)

 
 

返還地区                

返還日           広さ         現在の主な用途

追浜海軍航空隊   

昭和46年02月19日        約28万㎡        追浜工業団地

衣笠弾薬庫     

昭和47年03月15日        約44万㎡        公園墓地

久里浜倉庫地区   

昭和47年03月22日        約83万㎡        くりはま花の国

追浜海軍航空隊   

昭和47年04月03日        約18万㎡        追浜工業団地

追浜制限水域    

昭和48年02月10日        約80万㎡        埋め立て

武山射撃場     

昭和50年03月15日        約12万㎡        西部公園

 
 
 しかし、世論の評価は違っていました。
 
 

結局米空母の母港化は恒久化しSRFも日米共同使用となりその返還は大きく後退した。そして「革新市政をうたってきた長野市政がついに米空母の母港化を認めてしまったこと」に対する批判として、市民は来るべき市長選挙では新しい住民団体を組織して「革新市政実現を目指す」ことになった。<同前昭和48・5・26>。最終的に長野市政は市民から「革新」であることを否定される形で幕を閉じたのである。(「新横須賀市史第4編第2章戦後市政の展開」)

 
 市民が長野に見ていた「革新」と、長野自身の感じていた「革新市長」の間には 当初からある落差があったように思えます。実際長野は「社会党の政策に拘束されない」ということを条件に立候補の推薦を受けており、「基地のある市の長となって基地否定の行動をとることは、自己否定につながる」と考えていたのです。この落差が顕在化した時に、長野の市長としての使命は終わったと言えます。
 
 この「騒動」の翌年、長野の4期目の任期が切れ、16年勤め上げた市長を退任します。退任の挨拶は基地の問題を中心に話されていますが、最後は教育行政に関する心残りの心情がにじみ出ています。
 
 

今この職を離れるにあたり名残の惜しまれることは教育センターの実現をなしえなかったことであります。横須賀市の教育の中心となるべき殿堂、それは社会人に開放された権威ある講座をもつ大学であり、そこには教育のいろいろの問題について市民のだれもが参加できるシンポジウムが開かれており、親子連れだって学び、かつ遊ぶ学園であり、かように市民生活を美しく豊かにする根源をなすものを作りたいという構想は、この両三年、練ってきたものでありますが、この夢が将来実現できればよいと、心から願うものであります。(「市長退任の挨拶」)

 
 もし横須賀が基地を抱えていなかったら、おそらくこの構想の実現のためにもっと精力を注ぎ込むことができたでしょう。しかし長野の政治的課題は16年間基地の問題に尽きていたといえます。アメリカ第7艦隊空母の母港としての横須賀、そして旧軍用地を転用して市民の民生を図る横須賀、という現在の本市の姿は、長野市政がその基礎を築いたものであるといえるでしょう。
 
 

3 長野正義以後

 
 かつて長野を市長に押したのは、長野の教え子の飛鳥田一雄、社会党の委員長です。長野は「社会党の政策にとらわれなくてよい」という条件で、この要請を受けています。長野が候補者に選ばれたのは、教育者としての真摯な取り組みや梅津市政時に教育長として自説を貫いた姿勢など、その人格の清廉さといった要素であったように思えます。これから平和都市として生まれ変わろうとする横須賀において、「政界追放の梅津」対「清廉な教育長」という対抗の図式では、長野の優勢は誰の目にも明らかだったでしょう。
 
 この人格的な要素に「革新」というベールがかぶせられ長野市政がスタートしました。そして幸か不幸か、米軍基地の返還が当面の政治的課題であった当時の横須賀においては、市長を保守派がやろうが革新派がやろうが、大した違いはなかったとも言えます。市長に対する市民の信頼感だけが必要な要素でした。
 
 しかし、その後のミッドウェーの母港化という課題を迎えたとき、母港化を受け入れるのか、絶対阻止かという選択肢の答えが市民に求められることとなります。この答えが出されたのが、昭和48年市長選です。
 
 昭和48年7月1日、横須賀に新しい市長が誕生します。長野のもとで12年間助役をしていた横山和夫です。横山と市長の座を争った木村敬もまた長野市長の助役でした。横山が助役を勤めたのは長野県政の1期・2期・4期に、木村は3期目にほぼ該当しています。横山は長野市政の継承を、木村は革新市政の存続を訴え闘っています。この両者のスローガンに、長野市政の二重の性格が如実に表れています。長野市政は果たして「革新」であったのか。「革新」とはそもそも何であったのか。
 
 横山和夫が勝利したこの市長選が終わったのち、神奈川新聞に「長野市政16年間」という3回の連載が掲載されています。この中で、当時の横須賀自治研究所加藤勇所長は、「市が置かれた実情から、保守対革新の争点というものはほとんどなかった」と述べています。しかし16年の市政の最後になって米空母の母港化問題が発生した時、社会党は反対、共産・公明がこれに続き、自民・民社は賛成。長野与党が反対に回り野党が賛成とねじれを見せ、ここに 長野市政の二重性が顕在化することとなるのです。
 
 こうした状況で迎えた選挙戦において、革新市政の継承をうたう木村の応援団は、かつて長野を推薦した飛鳥田を始め、共産党代議士の中路雅弘、社会党参議院議員片岡勝治、加えて美濃部東京都知事、のちに東京都知事となる青島幸男、そして横須賀市出身の俳優石立鉄男、一方横山の応援団は、当時の県知事である津田文吾、田川誠一に加え、若き小泉純一郎といったメンバーでした。木村は「真の革新候補として革新市政を存続させるために絶対に勝利を勝ち取り、平和都市建設を達成したい」、横山は「長野市政を正しく受け継いでいけるのは私しかいない」とそれぞれ訴え闘います。
 
 選挙結果は、横山和夫114,683票、木村敬70,861票。基地の街における当時の保守対革新の闘いにおいて、4万票の差は大差といえるでしょう。長野市政の継承者が勝ち、革新市政の継承者は敗れます。これが、母港化と引き換えに横須賀の土地を取り戻した長野市政に対して市民の下した評価でした。
 
 選挙の終わった7月11日、横山は神奈川新聞のインタビューに次のように答えています。
 
 

老朽校舎を50年度までに改築し、教育センター建設のため基地の一部返還を国に求めるほか、老人福祉センター建設など、教育、福祉を中心とした市政を推し進めていきたい。

 
 まさに長野市政の継承を意識した見解に聞こえますが、横山もまた鳥取県の教育長というキャリアの持ち主です。そして、ここからさらに16年続く横山市政が始まります。横山にとって2回目と3回目の市長選でも、革新派は大敗を喫しています。
 
 

選挙                

選挙日        得票数

昭和52年選挙  

昭和52年06月09日   横山 和夫 114,683票  正木よしお 43,509票

昭和56年選挙  

昭和56年06月21日   横山 和夫 115,464票  本多 七郎 47,715票

 
 
 正木は横須賀地区労議長、当時全国革新市長会会長の飛鳥田横浜市長の応援を受けていました。本多は横須賀市議を経た元神奈川県議、折からのミッドウェイの母港化で反対運動が最も激しく闘われており、当時の長洲県知事もまた国に対して抗議声明を出している状況の中でした。それでも惨敗という有様だったのです。
 
 「新横須賀市史」は、「長野市政が市民から「革新」でないと否定されて幕を閉じた」としていますが、長野が引退した後の3回の市長選をみると、横須賀市民は「革新」を否定しています。つまり市民は、長野が革新でないと否定したのではなく、長野の「革新」の側面を否定したのです。長野市政以降の横須賀の歩みは、長野のいうとおり「基地のある現実に当面しつつ独自の市政運営をはかる」歩みであったことがわかります。