神保修理の無念

 
 神保修理の父・内蔵助は、文久2年(1863)京都守護職となった松平容保に伴って上洛、翌年家老に就任します。元治元年(1864)禁門の変の際、京都御所から敗走して山崎天王山に立てこもった真木和泉らを攻めて壊滅させた会津藩・新選組を指揮していたのが、神保内蔵助です。
 
 慶応4年(1868)の会津戦争のときには、六日町口の守備にあたっていましたが新政府軍を防ぎきれず、甲賀町口で戦っていた家老・田中土佐と共に、六日町口と甲賀町口の間にある医師の土屋一庵邸で自刃しました。このとき内蔵助は52歳。息子の修理(しゅり)を失ってからおよそ半年後のことでした。
 

 
 慶応4年(1868)1月3日、鳥羽伏見の戦いが始まります。このとき修理は、会津軍を指揮する立場にいました。ところがわずか3日後、主君・容保は慶喜とともに大阪から軍艦・開陽丸で江戸に逃げ帰ってしまいます。慶喜らは12日には江戸に到着、修理も江戸に戻りますが、収まらないのは会津藩士たちの容保に対する怒りです。しかし主君を責めるわけにはいきません。そこでこの怒りは修理に向けられることになります。
 
 修理は、容保に非戦恭順の方針を説き、慶喜にも江戸に戻って善後策を講じることを進言しています。こうした修理の動きは、藩内の主戦派から睨まれていました。鳥羽伏見の敗戦の責任は修理にある、との声が高まります。結局、藩内のこうした声に押され、事態を収束させるために修理に切腹が命じられます。
 

 
 人は社会の中で生きていく存在であり、社会は組織の集合体である以上、個人が組織の為に犠牲にならざるを得ないことはしばしばあります。人はそのようにしか生きることができないともいえます。特に武士の代は、個人の命を差し出すことによって組織を延命していた時代だったのでしょう。
 
 しかし、そのたびに命を落としていては、命はいくつあっても足りません。しかも、修理のような優秀な人材を失うことは、組織にとっても国にとっても損失です。戦とはきわめて不合理なものです。
 
 幕末の動乱も、幾多の有能な人材が失われています。私たちは、個人を犠牲にして組織を延命させる、という人間の性に対して、これを回避するシステムを組織の中に内蔵させる必要があります。つまり、人を抹殺せずに組織を存続させる文化を作らなければなりません。果たして現在という時代は、人の命を優先させる思想と行動を身に付けるまでに成熟しているでしょうか。
 
 容保を守るために切腹した修理、という関係性は、慶喜の命を延命するために徹底的に叩き潰された会津藩、という関係性と相似しています。修理の死をもって延命を図った会津藩は、やがて慶喜の延命のために徹底的に叩き潰されることになります。会津藩士たちが容保への怒りを修理にぶつけたように、薩長藩士たちの慶喜に対する怒りは容保へと、すなわち会津藩へと向けられることになるのです。
 
 「後世吾を弔う者、請う岳飛の罪あらざらんことをみよ。」という修理の遺言はまた、吾を会津と読み替えても意味を同じくしています。
 
 慶応4年(1868222日、神保修理切腹。享年35でした。
 

*岳飛:中国南宋にあって、無実の罪で落命した忠臣

現在は噴水公園となっている修理が謹慎した江戸上屋敷跡