山川大蔵の大胆
日光口は、会津若松から日光今市にいたる街道の出口にあたります。この日光口にある五十里(いかり)という場所にいた山川大蔵に帰還命令が届き、山川は会津に向かいます。しかしすでに鶴ヶ城は西軍に包囲されていて、山川軍1千は城に辿り着くことができません。
このとき山川は奇策に打って出ます。会津地方の伝統芸能である彼岸獅子の獅子舞を先頭に行進、敵兵が唖然とする中、1千の兵が無傷で入城したのです。本当にこんなことが起きたのでしょうか、信じられない出来事です。
日光街道を会津若松に入ると、阿賀野川の手前に小松地区という場所があります。彼岸獅子を先頭に山川軍が入城するという奇策を考えた山川は、この小松村の村長に協力を求めました。こうして10代の若者を中心とする笛や太鼓のお囃子を先頭に、山川軍は長州藩に似せた肩章を着け、いざという時のために銃には火縄をつけて臨戦態勢を整えたうえで、西追手門までの約200mを行進したといいます。明治元年(1868)8月26日のことでした。
これに先立つ8月23日朝、西軍の尖兵が城下に侵入し城下は大混乱になります。午前11時ころに土佐先鋒隊が鶴ヶ城の北およそ1㎞の場所にある甲賀町口郭門を破って城下に乱入、鶴ヶ城北出丸(北側)から城へ突入を図りますが、会津藩は山本八重の鉄砲隊を中心に防戦、西軍の猛攻を防ぎます。
午後になると鶴ヶ城の危急を聞きつけ、白河口方面を守っていた諸隊が二の丸(東側)から帰城してきます。また8月29日には、佐川官兵衛がおよそ千名の兵を率いて西出丸(西側)から城内を出て城下を抜け、西軍と戦っています。このことから、この時点では鶴ヶ城の北側には西軍が張り付いていますが、それ以外の城下には、まだ会津軍が動く余地はあったのだろうと思われます。現在の鶴ヶ城には、8月23日敵兵の侵攻と味方の帰城・8月下旬の諸藩の包囲網と会津側の動き・9月上旬の状況の3枚の地図がありますが、これを見ても、9月上旬の地図には全包囲網が敷かれていて西軍の配備がびっしり書き込まれていますが、8月末にはまだ比較的手薄な感じがします。
小松彼岸獅子団の入城は、この間隙をぬったものだと思いますが、そうはいっても西軍は目と鼻の先にいます。誰かが気が付いて「会津だ」といえば攻撃を受ける距離です。目の前を通り過ぎる不思議な一行を目の当たりにしてなすすべのない西軍は、おそらく夢を見ているような心地だったのではないでしょうか。小さな嘘は見破られるが、大きな嘘は気づかれないといいます。山川の奇策が的中した所以かもしれません。あるいは、鶴ヶ城を背景に行進する彼岸獅子という絵柄が、不道徳な戦いの中に一瞬の平和をもたらし、それが西軍兵に郷愁を与えて金縛りにかけたのかもしれません。そしてこのあと、鶴ヶ城での籠城戦がおよそ1ヶ月続きました。
敗戦後、山川は斗南藩の実質的な最高責任者として働き、廃藩置県後は新政府で活躍しましたが、54歳の若さで亡くなります。そしてその魂は、山川兄弟による「京都守護職始末」によって後世に伝えられることとなります。この「京都守護職始末」が世に出た明治44年、明治政府は文部省に薩長土出身の元老たちを顧問とする維新資料編纂会なる会を立ち上げます。これは顧問の一人である山県有朋が、京都守護職始末が世に出てしまうと、長州はかつて違勅の行動をしてきたということが世間に知れ渡ってしまうので、こうした誤解を防ぐために編纂会を置かなくてはらなない、として立ち上げるにいたったということです。
この話を聞いた大隈重信は、「山川といふ男は死後まで面白い芝居を打った」といって笑った、ということです。実に味わい深い言葉ですね。生前には彼岸獅子で芝居を打ち、死後は「京都守護職始末」で薩長をぎゃふんと言わせる芝居を打った、ということです。山川の大胆ここに極まれり、といったところでしょうか。
