手代木直衛門の家族愛
1 会津戦争
会津戦争の開戦時、城下に住んでいる武家とその家族は、城の鐘を合図に入城する手はずになっていました。しかし敵が急接近したために、時間的な余裕がありません。
このとき、城に入れず家に残った多くの婦女子は自ら命を絶ちました。家老・西郷頼母(たのも)の妻、千重子もその一人です。千重子は夫・頼母と長男・吉十郎の入城を見送った後、強い覚悟をもって母・妹2人・娘5人の家族で命を絶ちます。まだ幼い娘3人は千重子が刺殺しました。
婦女子たちは、自分たちが敵に捕まることでいくさが不利になることを避けるために自刃しました。これが、婦女子たちの戦いでした。老婦から幼気な少女たちまでが白装束をまとい倒れている姿は、想像しただけで壮絶な風景です。
一方、重臣の一人、手代木直右衛門(てしろぎすぐえもん)の妻・喜与もまた夫と嫡男を城に送り出しますが、その後の行動は千重子とは異なり、母と3人の娘を連れて城下を逃れ、耶麻郡(北会津)の山中に逃避し、降伏の日まで隠れていました。
これもまた、いくさに立ち向かう婦女子の戦い方の一つでしょう。山奥を転々としながら、手助けしてくれる老人に出会うという僥倖を得て、生き延びることができました。「死んではならん」とは、夫・直右衛門の言葉でした。
この両家の違いはどこから出てくるのか考えてみました。西郷の家は代々家老をつとめる会津武士の頂点にいた人でした。武士階級は、大きくは上士・中士・下士に分かれ、その中でもさらに細かく細分化されています。一方の手代木家は、中士の家柄でした。
手代木直右衛門は、公用人として京都で容保のために働き、会津戦争では城内で戦い、秋月悌次郎とともに止戦工作にあたった人物でこのとき若年寄に抜擢されていますが、もとはこのように中士の出身でした。
この身分の違いが、両者の考え方の違いの背景としてあったのでしょうか。階級というのは上へ行けば行くほど自制と呪縛を強いるものだ、ということがあるのかもしれません。西郷頼母という人物には、どこか頑なな印象があります。一方、直右衛門が長男豊吉に宛てた手紙を読むとその内容は、格式張っていない父親の愛情に溢れたほほえましい様子が伺えます。
2 二通の遺書
会津戦争で捕らえられて猪苗代にいた直右衛門は、容保と萱野・内藤・梶原の世襲家老、そして秋月悌次郎と共に江戸へ送られ、その後、高須藩にお預けとなります。このとき、子の豊吉に宛てた手紙が残されています。
祖母上様、母にも申すまでもなくよく事(つか)へ、妹共をもよく親切に導き候事専要に候。
そして、学問を心掛けなさい、よい友を選びなさい、からだを大切にしなさい、この手紙を大切にしなさいと続きます。日付は6月9日とあります。会津戦争の翌年、明治2年のことです。
また直右衛門は、会津戦争終結の翌月、囚われていた猪苗代から江戸に護送されるときに夫人・喜代に手紙を書いています。
此の上は御老人様御看病筋よろしく頼み入り候。豊吉初め女子共の養育専一に存じ候。此の上は吾等うわさ深く案じたまはるまじく候。主馬、豊吉無事に御座候。御案じなされまじく候。かしこ 十月十八日 直右衛門 おきよどの
家族のことを心配して、妻に後を託す心情が吐露されています。主馬は直右衛門の弟で、この時直右衛門、豊吉と行動を共にしていたのでしょう。「吾等うわさ深く案じたまはるまじく」とは、自分たちが殺されたといったようなうわさが流れても心配するな、と言う意味だと思われます。実際、共に江戸に呼ばれた萱野権兵衛は死罪(自刃)となっています。
この豊吉と喜代への二通の手紙について喜代は、会津若松から北会津に逃れる様子を克明に記録した逃亡日記「松の落葉」の中で、「家族と宅寛とに遺書各一通ありたり」と取り上げています。
3 日記「松の落葉」
是の歳(明治元年)の八月に官軍は若松城を十重二十重に取り囲み、日夜攻撃の絶え間なし。主人は去る三月に帰城し、只管(ひたすら)防守の事に力を尽くし、一方の口を守りたり。城兵もここを先途と戦ひて各地の官軍を駆け悩ましたるが、二十二日の早朝猪苗代方面にて石蓆(いしむろ)の味方運悪く退きければ、寄手の大軍潮の寄する如く城下をさして追ひ来たる。
なんとも朗々たる名文ではないでしょうか。主人はもちろん直右衛門、石蓆は石筵でしょう。(一方の口はどこだろう?)「松の落葉」にはこのあと若松降伏までのおよそ1ヶ月、助けを得ながらさまよい歩いた様子が描かれています。
日暮れまで徘徊する時などには、両児が「何時殺されるのでせう、何時死ぬるのですか」と尋ぬる言葉を耳にするさへ胸も張り裂けん心地せり。
苦難の様子がありありと伝わってきます。災難はさらに続きます。斗南藩への国替えです。明治3年10月、一行は阿賀野川を下り新潟へ、そこから船で陸奥湾の野辺地港へ、さらに目的地である下北半島中央部の田名部(たなぶ)に到着します。
ここで悲劇が起きます。慣れない旅の疲れと寒さで、到着して一か月後に母が亡くなります。なんのための旅であったのか、さぞ悔しかったことでしょう。
その後、明治5年、罪人として高須藩から名古屋に移り尾張藩で幽閉されていた直右衛門が、幽閉を解かれて長男と共に田名部に帰着します。会津戦争における別離から斗南での再会までのこの家族の道のりは、手代木直右衛門が育んだ家族の愛のストーリといえます。

喜代は麒麟山を臨む阿賀野川を下って新潟から斗南へ向かった。