柴五郎の規律
1 会津戦争
いくたびか筆とれども、胸塞がり涙さきだちて綴るにたえず、むなしく年を過ごして齢すでに八十路を越えたり。
「明治人の記録」に収められている「柴五郎の遺書」と題する文章の冒頭です。1868年(明治元)8月、官軍が会津に攻め込みます。柴五郎10歳の時です。このときの悲劇が、五郎の心に一生の悔恨として刻まれます。
悲運なりし地下の祖母、父母、姉妹の霊前に伏して思慕の情やるかたなく、この一文を献ずるは血を吐く思いなり。
五郎の兄たち3人は越後・宇都宮の前線に、すぐ上の兄は父のいる城内に戦いに赴きました。五郎は母親に言われるままに、城下から離れた山荘に移されます。その数日後、官軍の攻撃が始まると、柴家の女性たち、祖母・母・長男の妻・姉・妹の五人が自刃しました。
わずか七歳の幼き妹まで懐剣を持ちて自害の時を待ちおりしとは、いかに余が幼かりしとはいえ不敏にして知らず。まことに慙愧にたえず、想いおこして苦しきことかぎりなし。
会津戦争が終わると、父と2人の兄は猪苗代の収容所にいました。五郎と一緒に山荘にいたのは、負傷した長男の太一郎でした。太一郎は東京へ俘虜として護送されることになり、五郎はその看護人ということで一緒に江戸へ向かいます。五郎は江戸で下男や馬丁などをしながら食いつないでいましたが、新政府は南部藩から二戸・三戸・北の三郡を取り上げ旧会津藩に与えられることになります。斗南藩です。そこで五郎たちは明治3年5月、この斗南藩へはるばると向かうことになります。
2 斗南藩
斗南藩へ行ったのは、会津から父、東京から太一郎と五郎でした。ここで永住して開拓する決意を固めた太一郎は、嫁をもらいます。三男の五三郎と四男の四朗は、勉学のため東京に残留、次男の謙介は行方不明でした。
斗南藩では山川大蔵がこれを統轄しますが、寒さと飢えに人々は苦しめられます。
建具あれど畳なく、障子あれど貼るべき紙なし。板敷には蓆(むしろ)を敷き、骨ばかりなる障子には米俵等を藁縄にて縛りつけ戸障子の代用とし、炉に焚火して寒気をしのがんとせるも、陸奥湾より吹きつくる北風強く部屋を吹き貫け、炉辺にありても氷点下十度十五度なり。炊きたる粥も石のごとく凍り、これを解かして啜る。
不運は重なるもので、長男太一郎が藩のために罪をわが身に背負い、獄中につながれてしまいます。それを知った三男の五三郎は父を助けるために勉学を諦め、東京から斗南へやってきました。こうして斗南での苦しい生活が続きます。会津戦争を生き残って江戸に収容されていた藩士たちは、斗南藩を藩の復興として会津に与えられた恩典だと喜んでいました。しかし来てみれば、ここは地獄でした。
何たることぞ。はばからず申せば、この様はお家復興にあらず、恩典にもあらず、まこと流罪にほかならず。挙藩流罪という史上かつてなき極刑にあらざるか。
五郎の怒りのとおり、これが新政府、というより薩長が会津に与えた極刑でした。版籍奉還と廃藩置県は、封建制国家から近代国家に変わるために必要な政策だったといえるでしょう。しかし会津藩へのこの仕打ちは、新国家建設のために必要だった措置とはとうてい考えることができません。
翌明治4年7月、廃藩置県の令が下り、斗南藩は青森県に編入されていきます。五郎たちが移ってから1年2ヶ月、この間の苦労はいったい何のためだったのでしょう。
開拓いまだ緒にもつかず、荒涼たる原野に取り残されたる藩士の群、支柱を失いてその前途に迷い天を仰いで嘆息せり。
五郎はこの年に青森県庁に職を得、その後東京での下僕生活を経て、陸軍の仕事に就いていくことになります。
この斗南での経験は、幼い五郎の心に大きな教訓を残したと思われます。その一つは、大きな力をもつ者のふるまいが、いかに立場の弱い者に影響を及ぼすか、ということに対する洞察だったと思います。そしてこの洞察が、柴五郎の柴五郎たる由縁である軍人としての規律につながっているように思われます。それを証明した出来事が、北京籠城でした。
3 北京籠城
明治27年(1894)日清戦争で清国が敗れると、欧米列強はこぞって清国に進出を図り、鉄道敷設や鉱山開発などによる権益を獲得します。こうした列強の侵略に対し、清国内では、「扶清滅洋」をとなえる義和団を中心とする外国人排斥運動が激化します。この外国人排斥運動は、日本の幕末における攘夷と似たところがあります。明治33年6月に天津にある日本の領事が、当時の日本の外務大臣に送った報告書にも、攘夷を旨として徒党を組む義和団という集団があって、教会を焼いたり宣教師を殺害したりしている、とあります。
この義和団の動きに清国政府も同調し、北京の一廓、天安門広場から2㎞の場所にある東公民巷にある列強の公使館を攻撃します。ここには、日本の公使館を始め、アメリカ・イギリス・ロシア・フランス・ドイツ・オーストリア・イタリア・ベルギー・オランダ・スペインの公使館があり、それぞれに公使の他に守備兵がいました。守備兵といっても各国50名程度の軍隊で、各国の守備兵を合わせても400名程度であり、義和団と清国軍およそ1万の兵と比較すると圧倒的にすくない数です。連合軍は、この人数でおよそ60日の籠城戦を戦い抜きました。そしてこのとき、戦いの中心となった粛親王府という場所を守り抜いた軍の指揮官が、柴五郎だったのです。
粛親王府は、日本兵と、すでに公使館が敵方にわたっていたイタリア兵で防衛しました。さらにこの場所には3千名もの「教民」=中国のキリスト教徒もいました。同じ国でも、西洋の宗教を信じる者は、義和団にとっては敵とみなされたのです。
戦場となった東公民巷という場所は、およそ800m四方のそれほど大きくないエリアですが、戦闘が始まってすぐに、エリアのおよそ半分は清国軍が占領します。この時点で、オーストリア・イタリア・オランダ公使館は清国軍の手に落ちています。その他の公使館も、ほぼ連合軍の防衛線に隣接している切迫した状況でした。
翌7月に入ると、日本軍が守っていた粛親王府もおよそ半分が敵方の手に落ち、数メートルの距離を挟んで敵と交戦しているような状況でした。こうした中、柴五郎は日本の守備兵だけでなく連合国軍の守備隊や中国人の教民たちからも厚い信頼を得ながら、60日に及ぶ籠城戦を戦い抜いたのでした。
侵略や戦争を美化することはできませんが、戦争が不可避な時代にあって、ある戦闘の場面で、常に冷静であり、規律を守り、責任を他に転化せず、他国の軍人から信頼され、武器をもたないキリスト教徒を守り、使命をまっとうした柴五郎という軍人は、大いに称賛されるべきだと思います。
五郎は後に、第二次世界大戦について次のように語ったとあります。
中国は友としてつき合うべき国で、けっして敵に廻してはなりません。中国という国はけっして鉄砲だけで片づく国ではありません
柴のような軍人が第二次世界大戦のときの指導者であったならば、大戦の様相も幾分異なったものになっていたかもしれません。困難な状況においては、真に信頼できる人に、人はついていきます。次のエピソードは、柴の人柄をよく表しています。
北京籠城が日本軍の勇敢な働きで解かれたが、その後に各国軍によって警備区域が定められた。日本担当区は柴五郎中佐が警務衙門長として軍政を受け持ったが、軍紀厳正で中国人民を厚く保護したので、他の区域から日本区域に移住してくるものが多かった。
柴五郎とは、会津の土地と歴史が生んだ規律という精神ではないでしょうか。

陸奥湾から釜臥山を臨む。山の奥が田名部。