松平容保の諦念

 

1 空前の大任

 
 幕府より京都守護職への就任を打診された容保は、次のように述べてこれを辞退します。
 

いやしくも台命とあれば、何事にせよお受けするのが藩祖からの家訓でもあり、つつしんで命も奉じもしようが、顧みるに容保は才うすく、この空前の大任に当たる自信がない。・・・なまじいに台命と藩祖の遺訓を重んじて、浅才を忘れ、大任に当たるとしても、万一の過失のあった場合一身一家のあやまちでは納まらず、累を宗家に及ぼさぬともはかられぬ。・・・願わくば微意御諒察下されたい

*台名(たいめい);将軍の命令

 
 しかし、松平春嶽は執拗に家訓をたてに容保に就任を迫ります。容保もまた、藩祖保科正之の家訓から逃れることができません。
 

台命しきりに下り、臣子の情誼としてももはや辞することばがない。・・・そもそも我家には、宗家と盛衰存亡をともにすべしという藩祖公の遺訓がある。卿ら、よろしく審議をつくして余の進退のことを考えてほしい

 
 こうして容保は、集まっていた家老たちに同意を求めます。
 

君臣もろともに京師の地を死場所としようと、ついに義は決した。

 
 文久2年(1862)閏8月のことでした。容保は逡巡の後、最後には藩祖の教えに殉ずる道を選びます。情勢からみてこの大任を果たせるのは、やはり会津藩しかなかっただろうと思います。
 
 

2 秘密の御内賞

 
 京における過激攘夷による混乱が続く、文久3年(1863)、八月十八日の政変が起こり、幕府は会津藩を中心に、過激攘夷派の公卿と長州藩を京から追放しました。これは過激攘夷を嫌う孝明天皇の意志でもありました。孝明天皇は、心から容保に信頼を寄せていたのでしょう。次のような勅旨が容保に伝えられます。
 

さきの八月十八日の一挙に、もしその所置が当を失っていたらゆゆしき大事になるべきところを、まったく卿の指揮がよろしきをえたので、すみやかに沈静した。深く叡感あらせられるところである。

 
 こうして容保に天皇直筆の和歌(御製)が与えられます。
 

たやすからざる世に武士の忠誠の心を喜びてよめる 和(やわ)らくも武(たけ)き心も相生の松の落葉のあらす栄えん

 
 容保に対する感謝と、これからも守ってくれよ、という孝明天皇の切な願いが感じられます。このときの御製もまた、その後の容保の行動を縛ることになったと思われます。
 
 

3 病甚だ重し

 
 元治年(1864)2月、長州征伐をにらんで容保は軍事総裁職となり、守護職は松平春嶽に代わります。しかし、わずか2ヶ月で守護職の役は再び容保に戻ってきました。守護職はもう、他の誰も代われない役回りとなっています。この時も容保は、守護職の辞表を呈しています。
 

わが公の病は甚だ重く、食物が咽喉を通らないことが旬余日もつづき、衰弱が甚だしく、主治の医員も手を空しくこまぬいて、術の施しようがなかった。藩臣らはみな茫然として、明日はどうなるかと憂慮するのみであった。

 
 容保の健康状態は、このようなものでした。しかし、提出した辞表に対し、帰ってきた幕府の命は、これを許さないというものでした。
 

願いの趣及ばれがたき御沙汰にて、いつまでも心永にとくと養生を相加え、気分快癒まかりなり候わば出勤いたし、相変わらず励精奉公して、公武の間の御都合よろしきよう周旋いたし、

 
 気分が良くなったら出勤して奉公に励んでくれればよいからとは、なんとも回りくどい言い方ですが、要は守護職辞任の願いは聞けませんということです。公武和合に努めてくれ、と言われるとこれは孝明天皇のたっての願いでもありますから、容保としてもそう簡単には断れないところです。さらにその2年後の慶応2年(1866)10月17日、今度は次のような書を呈して辞退を申請しました。
 

…よって、私に当職を御免なし下され、相応の御用を仰せ下され候わば、別して有難く、いかにも微力をつくし、御奉公仕り候にて御座あるべく候。この段、厚く御垂察下されたく願い奉り候。

 
 この年の7月、将軍家茂が死去し、8月に慶喜が徳川宗家を相続しました。そして12月には慶喜は第15代将軍に就任します。今回は、こうした状況の中での辞職申請でした。容保の考えは、慶喜が宗家を継いだのだから、慶喜が京都で指揮をとって事態を収めれば良い、というものでした。
 

将軍家に永く輦下*に止まり、親しく禁闕*を守護し、公武一和の実績をあげしめるに得策はない。

*輦下 (れんか ) ;天子のおひざもと   *禁闕(きんけつ);皇居の門

 
 しかし慶喜にはそんな気はさらさらありません。老中板倉勝静朝臣からの申し渡しは、辞職申請の却下です。
 

…また現に防長の処置も未だ終局していない。あるいは、さらに大旆*を出すことにならぬとも測られない時である。従来通り職にあって、公武一和のために励むように

*大旆 (たいはい );将軍が用いる旗

 またしても、公武一和です。
 
 

4 わが藩士の怒り

 
 この年の12月、孝明天皇が死去します。容保の落胆は尋常ではなかったと思います。翌慶応32月、容保は三たび辞意を決意します。孝明天皇が亡くなったばかりでなく、それに伴い幕府は長州を討つための態勢を解こうとします。しかもその奏上を、将軍家に代わって容保と所司代の定敬(さだあき)に朝廷に奏上するように命じたのです。定敬は、容保の実の弟です。
 
 ここに至って、会津の藩臣たちは怒り心頭です。他藩の兵などはろくに戦わないで敵を利してきただけだが、わが藩は孝明天皇の意向を受け身を挺して長州と戦ってきた。今もわが藩主が戦う意志を示しているのに幕府は戦いをためらい、あろうことか休戦を言い出して。そもそも幕府はこれほどの大事を決めるのに、容保公に相談もない。なんたることか。もうさすがにこれ以上はやってられない!
 

わが公の今日までの報公で、いささかながら天恩の万分の一は報い奉ったし、宗家への義務もつくした。その上、藩祖公への遺訓にも背かなかったと信ずる。今はただ一刻も早く職を辞して、領土に帰るにしくはない。けだし、今がその時機である。

 
 さすがに今回は、と思わせるくだりです。容保も意を決して辞表を提出しました。ところが幕府は、なんだかんだと言って容保を引き止め、ずるずると時間だけが過ぎてゆきます。4月になって老中たちもやむを得ないとなり、朝廷の許可があれば、一年か一年半の期限付きで帰国を許すことになります。ただし守護職は解かない、また容保の代わりに息子の余九麿*を入京させること、という条件つきでした。

*余九麿 (よくまろ );徳川斉昭の 19男、慶喜の異母弟

 
 さらに老中は、会津は不便だろうからと容保を駿府に移す案まで浮上し、それまで会津に帰らず待っていろ、などと言われてしまいます。この駿府転封案は、しょせん容保を引き止めるための口実だったかもしれませんが、容保と会津を離す妙案だったような気もします。容保と会津は一心同体ですから、この案は大変失礼な案だとは思いますが、もし容保が駿府に動いていれば、戊辰戦争の形も、もっと違ったものになっていたのではないでしょうか。
 
 こうした中、慶応36月、容保は再度帰国許可の申請をします。これに対し朝廷も幕府も慰留するばかりでしたが、ついに88日、将軍慶喜が容保に告げます。
 

幕府の危いことは、じつに薄氷を踏むようである。一歩を誤れば、たちまち天下は擾乱となろう。ゆえに、卿も病気を勉め、東帰の念を断ち、在京して補翼されたい

 
 この年は10月に大政奉還、12月には王政復古とめまぐるしく情勢は変化し、幕府崖っぷちの時期です。幕府によってがんじがらめにされている会津の、これが宿命だったといえるでしょう。容保は家臣を前にして、こう告げます。
 

宗家と盛衰存亡を共にすることは、藩祖の遺訓である。今この危急の際に、宗家のひとり倒れるのを見るには忍びない。畏くも前朝の叡旨を奉体して、公武一和のため斃(たお)れて止むのみである。

 
 こうして会津藩は、鳥羽伏見から会津戦争へと至る戊辰戦争を戦うことになります。そしてまた、倒れたのは無情にも慶喜でなく容保と会津藩でした。
 

5 容保の諦念

 
 遠山茂樹は、「京都守護職始末」の解説で次のように述べています。
 

松平容保と会津藩は、尊王に誠実であることによって、尊王に裏切られたように、佐幕に誠実であることによって、将軍慶喜に裏切られたとの印象をもたずにはおれなかった。

 
 ここで尊王という言葉が二回出てきますが、容保が誠実であった対象としての尊王とは孝明天皇個人であり、裏切られた対象の尊王とは西軍の「玉」としての天皇すなわち国民統治の手段としての天皇だったと私は考えます。孝明天皇の人格に対して誠実だった容保が、幕末の権力闘争に敗れることは必然だったでしょう。どうあがいても、天皇を「玉」すなわち統合のシステムとしてとらえる西軍には勝てません。なぜなら、このいくさは、支配者が人格をもつ封建制国家と、支配者がシステムとして機能する近代国家との戦いだったからです。そしてこのとき、領主の乱立する封建制国家は近代的統一国家へと転身せざるを得ませんでした。しかし敗北は必然だったとしも、容保は人格のないシンボルなどには裏切られて本望だったと思います。
 
 一方、誠実であった対象の佐幕とは、藩祖保科正之の家訓でした。そして慶喜は、この家訓を人質に容保を京に縛り付けて討幕派に対する矢面に立たせながら、自分は身を守って後退戦を続けながら生き抜きます。慶喜は、常に容保を裏切り続けたとも言えます。西郷頼母が白河で下手を打ったとしても、容保に対して執拗に会津に戻ってくれと懇願する姿が胸を打つのは、ここに理由があります。慶喜はうまいこと言って、会津をいいように使っているだけではないか、と。
 
 しかし、そのようなことは容保の百も承知のところです。容保はこの諦念により、歴史を動かした西軍に対し、滅びゆく日本武士の巨大な精神としてこれと殉死することによって新しい歴史を受け止め、これを受容したのです。すなわち薩長は日本史の表層をつくり、会津は日本史の深層をつくりました。私たちが会津の歴史を紐解くとき、誰もが胸を打たれ、そして惹きつけられる理由がここにあります。
 

孝明天皇が使用した御常御殿(おつねごてん)