「平成の薩長土肥連合」の錯誤

 明治維新は、近代的な統一国家を形成した政治的革命であった。それは、徳川幕府による諸藩の統治から、新政府による直接的な国民統治への転換を図った。きっかけとなったのは、ペリー艦隊による開国の要求であった。
 
 国家は国内に対する統治の機能と、他の国家に対する防衛機能の二重性をもっている。江戸時代までは、前者の機能が優位であったが、幕末以降、日本には後者の機能が強烈に問われてくることとなった。すなわち、国内の権力が分散していては外国の侵略を受けやすいため、身を守るためには国の統一が必要である、ということである。
 
 幕末から明治にかけての攘夷思想は、外国人を日本に入れるな、という感情論から、日本を強くすることによって外国の侵略を防ぐ、という戦略論に変わっていった。これが明治維新の動機である。
 
 明治政府はまず、徳川幕府が諸藩を統治し、諸藩が農民を統治するという封建的な統治形態を破壊し、天皇を精神的支柱とし上位に置き、その下に薩長を中心とする藩閥による新政府が国民を実質的に統治するという形態を作り上げた。
 
 この明治維新は、ペリー来航から幕府による日米和親条約・日米修好通商条約締結、それに反対する尊王攘夷運動、それを弾圧した安政の大獄に至るまでの準備期を経て、水戸藩士が起こした桜田門外の変以降、本格的に始まった。これ以降、脱藩浪士による激派攘夷運動は、幕府と雄藩をめぐる権力掌握にむけたヘゲモニー争いへと転換していく。
 
 この争いは、戊辰戦争を経て、薩長を核に土佐・肥前を加えた、いわゆる薩長土肥による藩閥政治なるものを生み出した。明治政府の要職を、ほぼ薩長が、そして若干の土佐・肥前を加えた面々が独占したのである。
 
 これらの藩出身者による明治政府はまず、版籍奉還により諸大名の領地と領民を天皇に返上させ、次いで廃藩置県により土地と人民を政府が直接統治する形態を完成させた。ここに封建社会は解体し、明治維新は完了する。
 
 すなわち、明治における政治的革命としての明治維新とは、従来の徳川幕府を盟主とする諸藩の封建的連合体を解体し、明治政府が国民を直接統治するという近代的国家への暴力的な転換をさすのであり、こうした意味において、版籍奉還―廃藩置県がこれを形式的には完成させたのである。
 
 このとき人々は藩の所属たるを止めて国家に所属することになり、藩主-藩士-藩の領民という支配構造は、国家―国民という支配構造に転換する。藩に代わり県ができるが、県は行政組織の一つに過ぎず、藩のように一定の相対的独立性をもった権力機関ではない。これは、藩の名称が県と変わっただけの話ではない。すなわち藩と県は、国の統治の形態として見れば、以て非なるものである。ここに連続性はない。
 
 ところで問題は、この封建社会の解体と近代的な統一国家の形成を誰が担ったのかというところにある。明治時代の政治の推進者を内閣総理大臣とするならば、7名の内閣総理大臣のうち京都出身の西園寺公望を除く6名が、山口と鹿児島出身となっている。しかしだからといって長州と薩摩が統一国家の形成を担ったのだ、ということにはならない。
 
 そもそも、日本の社会を混乱に陥れたのは、過激な攘夷運動とその反動としての安政の大獄であった。しかしこうした過激な動きとは別に、幕末の多くの才能ある人々は、佐幕派も討幕派も、徳川幕府の武家政治に変わる、新しい国家像を模索していた。
 
 公武合体は一つの答えであった。公武合体派が勝利していれば、改革はゆるやかに進んでいただろう。資本主義列強に対抗するにあたり、封建制国家であり続けることなどできはしないのだから、倒幕にしろ公武合体にしろ、統一国家が形成されるのは歴史的必然であった。そこで幕末におけるメルクマールは統一国家へ至る方法論、すなわち改革か革命か、であった。そして討幕革命派の西軍が勝利した。
 
 勝利の要因は端的に武器であった。西軍の銃は飛距離で東軍のおよそ2倍、1分間の発砲回数は5倍以上であった。この差が西軍に勝利をもたらした最大の要因である。そしてこの武器の威力の差は、地理的な差によるものであった。西軍は早くから外国との交易を行い、武器の調達も早かった。一方東軍は、圧倒的に準備が遅れていた。この地理的な差が時間的な差となって現れた。すなわち東軍は従来の武士の作法にこだわり、西洋的な軍備の準備が遅れた。革命を西軍が担い、東軍は保守の役割を担った。
 
 薩長もかつては、武士の作法にこだわる保守的な攘夷派だった。しかし、まじかに欧米列強と一戦交えてみれば、刀や槍では歯が立たないことは歴然だった。西洋の武器で武装しなければ、これからの戦争には勝てないことが身に染みてわかった。会津・奥羽列藩はこれがわからなかった。わかるのが遅かった。
 
 戦いは確かに薩長の見事な勝利だった。しかし薩長は、政治的革命とは別の次元で大きな過ちを犯した。それは、慶喜の恭順以降に戦われた東北戦争における徹底的な会津藩つぶしであった。果たして何のために。
 

 
 2018年(平成 30)の明治維新 150年に向けた広域連携観光プロジェクトとして、「平成の薩長土肥連合」が 2014年(平成 26)に「盟約を締結」した。核となったのは 2009年(平成 21)に発足した「薩長連合」であるという。「平成の薩長土肥連合」は、鹿児島・山口・高知・佐賀4県の知事が集まって盟約締結式を行っている。
 
 封建社会の解体から 150年たって、藩の亡霊が蘇った。個人やグループの趣味の世界ではない。れっきとした地方行政組織が立ち上げた公式の組織である。行政の長が公式に「薩長土肥連合」を宣言することがどういった余波を巻き起こすのかということについて、この人たちはおそらく無自覚である。自覚しているなら東北地方に喧嘩をふっかけていることになる。「だったらこっちは奥羽列藩同盟だぞ」ということになるからである。無自覚であるとするなら、なんとも良識と想像力に欠けている。再び日本に分断を持ち込むつもりか。
 
 錯誤の根本は、明治維新は薩長土肥が行った、と考えているところにある。しかし事態はそれほど単純ではない。安政の大獄で捕らえられた檄派の脱藩浪士の命とこれを弾圧した井伊直弼の覚悟が、錦旗を掲げた岩倉の策略と大阪から逃げた慶喜の弱気が、江戸無血開城を実現した勝と西郷の胆力が、会津戦争で命を落とした会津藩士とその家族が流した血涙が、五稜郭で戦った榎本武揚の理想とこれを取り立てた黒田清隆の度量が、土地を荒らされ戦費として年貢を搾り取られた農民が、そしてここに数え上げることのできない全ての日本人の苦しみが、統一国家を生んで日本を日本たらしめたのだ。
 
 この重たい現実の前では、「平成の薩長土肥連合」など、ひとかけらの錯誤でしかない。
 

戊辰戦争最後の戦場