野口武彦「鳥羽伏見の戦い」を読む
会津戦争は避けられたはずだと私は考えているが、その立場からすると、歴史はある局面における個人の意思によって左右されるものであるから、もしもあの時こうしていれば歴史は変わったのにと、「もしも」を考えることはおかしなことではない。むしろ「もしも」を考えなければ、歴史を考えたことにはならないだろう。あり得たであろう現実、避けられたであろう過去を幻視することは未来を変えることにつながる。野口武彦の「鳥羽伏見の戦い」は、こうしたモチーフで書かれている。
歴史の流れにあって確実なのは、始発条件としての存在拘束性と不可避性だけである。未来に向かってどういう流路をたどり、どういう形状の堆積を作るかはあらかた当事者の≪自由裁量≫に属する。歴史は大小の決断の連続であり、無数のイフの群が相互排除的にひしめき、最後のその一つがすべてを押し退けて場所を占める瞬間瞬間の持続である。
難解な表現だが、言われていることはこうである。歴史上のある時点に立った時、人間はすでにそこに存在している過去から自由であることはできないが、未来はその時点に立った人間の自由裁量によって作っていくものである。
ここで自由裁量という言葉が使われているが、歴史上の当事者は文字通りの意味で自由な裁量をもつわけではない。歴史においては、取り得る選択肢などそれほど多くはない。常に当事者は自分に与えられた、その時点で取り得る数少ない選択肢の中から、ある一つの決断をするだけである。それを自由裁量と呼ぶこともできるだろうが、人は純粋な自由意思で物事を決定しているわけではない。最後の決断はむしろ、状況から強いられた決断をさも自分の意志のように表明するだけである、ともいえる。
だが、幕末の歴史において、まさに「自由」に物事を決断していたように見える人物が一人いる。徳川慶喜である。慶喜は、幕府の為に戦っている兵士たちを残して自由に江戸へ逃亡した。ここで自由とは放恣または無責任と同義である。幕府軍の兵士たちが翻弄された最大の出来事が、鳥羽伏見の戦いであったろう。これほど総大将の意志と現場で闘う兵士たちの意志がかけ離れている戦闘もないのではないだろうか。混乱を極めた四日間における会津藩士の奮闘ぶりを、野口武彦「鳥羽伏見の戦い」に沿って追ってみたい。
開戦前夜
慶応3年(1867)10月14日慶喜は大政を奉還、朝廷側は12月9日に王政復古の大号令でこれに対抗、旧官職を全廃し総裁・議定・参与の三職を置き、慶喜を排除した。その後、三職会議において公議政体派が巻き返し議定に迎え入れられることとなった慶喜は、条件である「軽装」による上洛を決めた。
時同じくして、公議政体派の巻き返しを嫌う西郷が江戸に放っていた薩摩藩士たちは、略奪・強盗・放火を繰り返し、江戸の治安を乱していた。怒りを抑えきれなくなった佐幕派の武士たちは庄内藩を中心に江戸の薩摩邸を焼打ち、一気に薩摩打倒の機運が高まる。慶喜もまた慶応4年正月元旦、薩摩藩に対し「止むを得ず誅戮を加え申すべく候」という「薩討の表」を発した。しかしこれは、あくまで幕府と戦争をして徹底的にこれをつぶさんとする薩摩藩に、戦争を始める絶好の口実を与えることになってしまう。
幕府側にとってこの戦いは、公議政権を樹立するという政治目的を実現するために薩長政権を狙う薩摩長州を軍事的に倒すための戦いであったはずである。さらに言えばこの時の選択は後に、大久保流の絶対天皇制のもとでの藩閥専制政治を選ぶのか、幕府側による西周流の三権を分立させたうえでの慶喜を元首とする大君専制政治を選ぶのか、という選択につながっていっただろう。
もしも慶喜が公議政権の樹立という明確な政治目的をもち、その手段として眼前の薩摩を軍事的に打倒するという軍事目的を持っていれば、鳥羽街道と伏見街道から北上し入京するといったセレモニーを装いながら薩長軍を鳥羽と伏見に集め、実は竹田街道に遊軍を送って背後から薩長軍を討つ、といった戦術をとることもできたであろう。そうすれば薩長討伐と入京を同時に果たし、公卿たちを公議政体派に引き込む可能性もあったはずでる。
しかしながら実際には、政権構想のスケールと軍事力で勝る旧幕府軍が、政権構想のリアリティと軍事目的に勝る薩長軍に敗北を喫してしまった。なぜなら、慶喜は鳥羽伏見を決戦とは考えずに、入京してから薩摩を追い出すという戦略だったからである。実際に、「洛中に入るまでは穏やかに行軍せよ」その後「いずれ薩を討ち、元のごとくもり返す」というのが慶喜からの指示であった。その証拠に鳥羽街道で先頭に立っていた歩兵隊は、銃に装弾していなかっという。
一方の薩摩側は、慶喜の入京を許すことは薩長政権樹立が危ういという危機感から、慶喜の入京を絶対阻止するという覚悟をもっていた。この一戦が政権選択の天王山であると考えていたからである。鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れたのは、両者のこの落差に原因があると私は考えている。
一月二日から三日にかけて、公称一万五千人の旧幕府軍が隊伍を連ね、「慶喜公上京の御先供」という触れ込みで続々と北上を開始した。その先頭には、討薩の表を大切そうに錦の袋に入れて持参する大目付滝川具挙(ともたか)の姿がある。軍勢は淀から二手に分かれ、鳥羽街道と伏見街道を埋めつくす勢いで行進していった。
開戦前夜の慶応4年(1868)1月2日、会津藩兵の主力は夜8時頃に伏見に到着し、東本願寺別院(東御堂)に入り本営とした。伏見の戦いは、伏見街道の南にある御香宮(ごこうのみや)神社に陣を構える薩摩藩と、さらにその南、距離にしてわずか100m程の場所に相対する伏見奉行所に陣を構える幕府軍との戦いを中心に展開していく。
幕府側は、総督大河内正質(まさただ)、陸軍奉行竹中重固(しげかた)、大目付滝川具挙という布陣である。正質は、あの吉田松陰が暗殺を企てた老中間部詮勝の五男。一方の新政府軍は、征討将軍*に仁和寺宮嘉彰親王が就いた。
*征討将軍:鳥羽・伏見の戦いのときに置かれた新政府側の臨時の官職。仁和寺宮嘉彰親王は、仁和寺の門跡(皇族・公家の住職)で、この後、佐賀の乱で征討総督、西南戦争で旅団長を勤め、日清戦争では征清大総督として旅順に出征している。

寂しげに佇む伏見奉行所跡
戦闘第一日目(1月3日)
午後5時ごろ、鳥羽小枝橋方面から砲弾の音が聞こえてきた。これを合図に、伏見でも合戦が始まる。奉行所の北に位置する御香宮と、東の桃山台と西運寺にある砲台から、大砲の弾が飛んでくる。伏見の戦いは、わずかな距離を挟んで北に位置する御香宮と南の伏見奉行所北門の間で始まった。会津兵は、大砲奉行林権助(ごんすけ)率いる大砲隊132名が奉行所の一角を守って闘いる。
この林権助、本名林安定は、文久2年(1862)に大砲奉行となり、翌年の禁門の変では大砲隊を率いて新選組と共に天王山の真木保臣を追撃するなどの活躍をしている人物である。「八重の桜」では、風間杜夫扮する林権助が登場するが、これは林安定の孫である。鳥羽伏見の戦いで祖父・父を失ったため、祖父の名前を継いだという。
会津魂がメラメラと燃え上がる。林権助は眦(まなじり)を決し、「全員死を決して戦え」と隊士を叱咤激励して戦闘を指揮。自らも三発被弾するがい痛手に屈せず、その場にドカッと坐したなりで号令を発する。何度進撃しても死傷者が増えるばかりの大苦戦だ。
両者大砲による砲撃や銃撃で対戦、接近戦に持ち込みたい会津は隙をみては突撃を試みるが、敵は銃陣を崩して街道の両脇にある商家に散会し、一人一人を狙い撃つ。たまらず会津兵は陣地へ後退。一進一退の戦いが続くが、林権助以下、負傷・戦死者が続発し淀城下へ後退。権助もこの戦いで命を落としてしまう。
一方この日、白井五郎太夫率いる会津大砲隊は、寺田屋に近い堀川にかかる京橋から竹田街道に進んだ。途中敵方である土佐藩と遭遇するが幕府寄りの土佐藩はこれを見て見ぬふり、ここは通せないがあっちを通るなら見過ごすよ、といわれた白井隊は一旦竹田街道を外れて土佐藩番所の背後に迂回し、再び竹田街道に戻るとそこには薩摩藩邸。白井隊はこれを破壊し突入、そこにいた薩摩藩士数名を討ち取って放火、その後北上するも、竹田街道の出口に「大砲六門お置いて散兵が身を潜めている」という情報に惑わされ、また「総督より淀へ(引き)上ぐべきの令」もあり、結局伏見へ戻ってしまった。
もしニセの情報に惑わされず進軍していたら…。この歴史上のイフからは、鳥羽伏見の戦いにおける別の結果があり得たことを感じ取ることができる。

薩摩軍が陣を構えた御香宮神社
戦闘第二日目(1月4日)
鳥羽街道における戦闘の二日目は、初日と同じ小枝橋から始まった。初日の戦闘を優位に進めた薩長軍だったが、戦闘開始時と同じ小枝橋に防禦線を張っていた。朝6時ごろ、幕府軍は下鳥羽から小枝橋方面に攻撃を加えたが、じりじりと後退を余儀なくされてしまう。
途中、幕府軍は米俵を積み上げて防壁とする「俵陣地」を築き防戦するも、薩長軍の猛攻にあいここを放棄し後退。
さらに南に移動した幕府軍は、富ノ森で今後は酒樽を積み上げ防壁とする「酒樽陣地」を築いた。富の森は、現在の京都競馬場の北、淀城に近い場所である。俵陣地も酒樽陣地も、そこいらにある物を借用してつくる急仕上げの陣地である。幕府軍はあっさりとこの酒樽陣地を放棄してしまうが、ここから会津藩士が登場する。
富ノ森は桂川の川沿いにあり、当時は芦のしげる低湿地であったため、大砲を持ち込んで打ち合うというより、茂みに隠れて相手に槍で切り込んでいくような泥臭い戦いとなる。これは会津藩兵の得意とするところであった。
近代戦のさなかにいきなり古色蒼然たる戦法を取られ、かえって狼狽した薩長両軍は押しまくられて退却する。会津兵は勇み立って追撃する。思いがけぬ反攻で薩長軍は下鳥羽まで後退し、旧幕軍は昨日奪われた富ノ森陣地を取り戻した。
せっかくの攻勢のチャンスだったが、現地の総大将である竹中重固陸軍奉行はここで追撃を命ずることなく収兵の令を発したため、会津兵たちは仕方なく淀に後退。我が佐川官兵衛はこのとき竹中に避難の言葉をあびせかけ、「お前のような意気地なしにはその馬はふさわしくない」といって竹中の馬をとりあげてしまった。反攻の好機はここにもあった。
一方の伏見では、劣勢により初日に伏見奉行所を放棄した幕府軍が、すぐそばの宇治川と堀川に挟まれた中書島(ちゅうしょじま)で奮闘していたが、指揮系統が乱れここを放棄。
こうした状況の中、午前10時ごろ、幕府軍本営の大河内総督と竹中陸軍奉行は宇治を回り新政府軍の本営である桃山の背後から進撃する策を立て、これを会津藩の白井五郎太夫隊に命じた。桃山は激戦となった御香宮神社と伏見奉行所の東にある小高い丘だが、兵数の少ない新政府軍はこの時総力を鳥羽方面に注ぎ込んでおり、桃山方面の兵力は手薄であった。
しかしこの画期的な作戦も、鳥羽方面の劣勢に慌てた竹中陸軍奉行がすぐに撤回し、白井隊を鳥羽方面の応援に向かわせてしまう。伏見での白井隊の活躍を是非見たかったものである。ここでも幕府軍は大きなチャンスを逃したのだ。
すでに伏見・鳥羽いずれの戦線も新政府軍に占領され、幕府軍は本営のある淀方面まで後退していた。

ここ堀川は伏見と淀を結ぶ交通路となった
戦闘第三日目(1月5日)
この日の早朝、新政府軍の征討将軍仁和寺宮嘉彰親王は、新政府軍の本陣である東寺から戦場の視察にでかけた。将軍宮は鳥羽街道を南下し樽酒陣地のあった横大路の民家で休憩、午後二時過ぎ、砲声が静まったので淀近くまで行き、そこで兵士に慰労の言葉をかけ、川堤を回って伏見の焼け跡をみて、暮れ方に東寺へ戻っている。かなり余裕の行動である。
このとき「先陣は薩摩藩の小一隊、次に錦の御旗に旈を錦旗奉行が護衛」とある。ここにおいて慶喜が主張していた会津藩と薩摩藩の私闘という鳥羽伏見の戦いの性格は見事に否定され、江戸幕府崩壊後の国家権力を掌握するための権力闘争としての性格が露わになったのではないだろうか。
もし慶喜が、この戦いは徳川と薩摩の私闘ではなく、徳川による公議政体をとるか薩長による藩閥政体をとるかという政体選択の戦いである、というイデオロギー闘争に持ち込んでいたら、幕府側の諸藩の結束も固かったかもしれない。しかし実際には、戦争に勝ちそうな方に諸藩はついた、としかいいようのない寝返りが相次いだ。
さて、前日藤ノ森の戦いに敗れ下鳥羽まで後退した新政府軍は、鳥羽街道・山崎街道・伏見街道の三手に分かれ進軍、藤ノ森の酒樽陣地は、新政府軍に奪還されてしまう。そしてこの日、藤ノ森のわずかに南の千両松において激戦が繰り広げられた。
伏見から淀への陸路は、「淀堤」と呼ばれる宇治川沿いの狭くて長い堤防道である。宇治川の向かいの左岸には荒涼たる巨椋池(おぐらいけ)の水面、右岸は横大路沼をはじめ大小の沼が散らばる湿地帯で、どこを見ても気持ちが暗くなるような冬枯れの風景が広がっていた。
会津藩兵は突貫槍でもって敵兵を討つために芦の茂みに隠れている。その茂みに長州藩兵が近づいて銃弾を撃ち込む。会津藩兵は茂みを飛び出し長州兵士に襲い掛かるも逆に銃弾の集中砲火を受けてしまい、会津藩精鋭の槍隊は全滅。こうした戦いがそこかしこで行われていた。
こうして幕府軍は千両松から淀城を経て隣の橋本まで後退、ここを最後の防禦線とし鳥羽伏見の戦い最後の日を迎えることになる。
戦闘第四日目(1月6日)
淀城から3㎞ほど下ると桂川、宇治川、木津川の三本の川が合流して淀川となる。幕府軍最後の戦いは、淀川をはさんで北側の天王山と南側の男山に挟まれた山崎地峡が舞台となった。淀川の北は山崎、南が橋本。
山崎を守っていたのは津藩藤堂家、橋本を守っていたのは新選組とともに京都の護衛にあたっていた見廻組を率いて奮闘した佐々木只三郎。只三郎は会津戦争で活躍する会津藩の重臣・手代木直右衛門の弟で、佐々木家に養子となっていた。坂本龍馬暗殺の実行犯との説のある人物である。しかし混戦のなか重傷を負い、命を落としてしまう。
言い伝えでは、兄手代木直右衛門の介抱を受け、兄から耳に口を寄せて「貴様もずいぶん人を斬ったから、これくらいの苦痛は当然だろう」(『坂本龍馬関係文書』二)といわれて苦笑したというからさすが剣客だ。重傷の身体を紀州まで運ばれたが、治療の甲斐なく死んだ。
ここでも会津藩はよく戦うが、山崎を守っていた津藩藤堂家が突然新政府軍に寝返り、幕府軍を攻撃。こうして幕府軍は、さらに追い詰められることになる。
この日の4時ごろ、総督大河内正質、竹中重固、滝川具挙らは橋本から退却し枚方で軍議を開いた。この軍議には、会津藩からも田中土佐や柴五郎の兄・太一郎も加わっていた。梶原平馬の兄で会津戦争において田中土佐と自決した内藤介右衛門はこの時、竹中・滝川と戦況の視察を行っている。幕府軍の中で会津藩の占める位置がわかる。
軍議において田中土佐らは「この地を画し、断じて一歩も退却すべからず。」と主張するが、その日の夜「諸隊すべて大坂に引き揚げよ」と慶喜の命令が届く。わずか4日の戦いが終わっただけである。戦力も温存されていた。この後1年4ヶ月続く戊辰戦争という後退戦で費やす戦力と死者のことを思えば、ここは態勢を整えて戦術を練り直し、反撃するべきではなかったか。そうすれば、会津と五稜郭の戦争はなかっただろう。
この日の夜、土佐藩から会津藩にもたらされた情報は、「京都は金穀・弾薬に乏しく、兵力も寡少で僧侶に禁闕を守らせている。速やかに大坂の全軍で京都を衝けば戦わずして事は成る」というものであった。大坂城には、警備隊をはじめとする諸隊がそっくりそのまま温存されていたのである。
要するに、遊撃隊・見廻組といった腕に覚えのある旗本剣槍軍団のほかに、銃隊化されていた旗本の諸部隊はこれまで戦闘に投入されていなかった。
しかしこの後、会津藩にとって無念の慶喜逃亡劇が始まる。

慶喜は「この城たとい焦土となるとも死をもって守るべし」と言ったが…