二本松を巡る

二本松の黒塚

 7月のfukunomoの「今月のお酒」は、檜物屋酒造店の奥州安達ケ原黒塚本醸造原酒であった。黒塚とは、二本松市に伝わる「安達ケ原の鬼婆」という伝説に出で来る鬼婆が葬られた場所で、浄瑠璃や歌舞伎で繰り返し語られている、という。その名のとおり、ラベルにはこの鬼婆の顔がアップで描かれている。
 
 仏教で「おに」は「遠仁」とも書き、仁すなわち慈悲の心から最も遠い我利我利亡者のことであるという。つまりは、鬼とは人の心のありようのことである、ということであろう。この鬼には青鬼・赤鬼・黒鬼がいて、それぞれ欲の心・怒りの心・怨みねたみの醜い愚痴の心を表しているという。鬼婆の墓所が黒塚であることの由来が、ここにありそうである。
 
 「黒塚」のあらすじは、こうである。奥州安達ケ原に住む鬼女の住まいを、山伏の一行が宿として借りにくる。それまでに犯してきた罪への悔恨の念をもつ女は、山伏をもてなすこととした。一行に暖を取らせようと、女は自分の留守中に寝室を覗かないよう念押しして薪を撮りに出かける。しかし一行は、寝室を覗いてしまう。と、そこには人間の屍骸が山積みにされていた、というお話である。
 
 歌舞伎の世界でこの黒塚を演じたのは、二代目市川猿之助で、以来、三代目と当代の猿之助もこれを演じている家の芸という。私は、三代目猿之助のファンで、歌舞伎座の3階の一番後ろの席は、私の大学時代、千円もしない廉価で座れる席であった。そこで観た「伊逹の十役」という演目がなんとも面白く、なにせ一人で早変わりの十役をこなし、しかも目の前で役を入れ替えるのだが、それがいつどうやって入れ替わったのかわからない、という程の技で、最後は天空に向かって階段を昇るように微動だにしない上体が煙の中に消えていく、という芸当をこなすのである。さらに猿之助はこのハードな演目を、一日2回こなしながら、1ヶ月も2ヶ月もこれを続けるという、超人的な体力勝負の芸を目の当たりにし、歌舞伎がこれほどにもサービス精神の充溢した大衆芸であったことを初めて知ったのであった。
 
 当時は、黒塚が猿翁十種と呼ばれるお家芸とは知らなかったが、もしその頃に観る機会があったとしても、当時の私には鬼女の哀しみは理解できなかったかもしれない。日本伝承大鑑によれば、この女が鬼になった由来が次のように説明されている。なんとも、もの悲しい話である。
 

岩手という名の女性が、とある公家に奉公していた。その家の姫は幼い頃から不治の病であったために、岩手はその病を治すための薬を求めて各地を転々とした。その薬とは、妊婦の腹の中にある胎児の生き肝であった。やがて岩手は安達ヶ原の岩屋に潜み、標的となる妊婦が通りがかるのを待ち構えていた。
ある時、若い夫婦が岩屋に一夜の宿を求めた。女は臨月の身重、しかも夫は用事があってそばを離れた。岩手は女を殺すと、胎児の生き肝を取り出して遂に目的を果たした。しかしふと女の持ち物に目をやると、見覚えのあるお守りがあった。それは幼くして京に残した実の娘に与えたものであった。今自分が手に掛けた女が我が子であることを悟った岩手は、そのまま気が触れて鬼となった。そして岩屋に住み続け、旅人を襲ってはその肉を貪り食うようになった。

 
 感情がある臨界点を超えると人は鬼になる。その契機は誰にでも訪れ得る。しかも優しい心をもつ人間ほど、鬼に転化しやすいのかもしれない。岩手もまた、姫の病を治したい一心の行為が自分の娘を手にかける結果を生み、そのことで己の心を人の世にとどめおくことができなくなり、鬼の世界へ転出してしまった。しかし、鬼とて人でなくなったわけではない。鬼の岩手にも山伏をもてなそうとする人の心が残っている。人と鬼の心の往還にはドラマがある。ここに、鬼にまつわるストーリーが廃れない理由がありそうだ。この鬼女を退治した祐慶(ゆうけい)という僧が建立した観世寺には、鬼女が住んでいた岩屋がある。ここは黒塚とともに、鬼女を偲ぶ名所となっている。
 
 それにしても、このような話がなぜこの地で生まれたのだろうか。古来、東北の玄関は白河であった。京の人々にとって、みちのくは異界であった。異界へ立ち入らせないようにするための作り話であったか、または異界への恐怖心が生んだ話か。だが二本松の現実は、伝説よりもさらに過酷な姿を見せることになる。
 
  

二本松少年隊

 慶応4年(1868)1月鳥羽伏見の戦い、5月江戸城無血開城、この間松平容保は会津で恭順の意を示すも西軍は白河へ進軍、会津へと迫ってくる。7月29日、奥州街道を北上する西軍本隊を大壇口(おおだんぐち)で迎え撃つのは、二本松少年隊63名のうちの22名。隊長木村銃太郎はじめ16名が戦死、残り6名も戦傷、戊辰戦争最大の激戦ともいわれる。木村隊長22歳、以下12歳から17歳の若者たちであった。白虎隊の少年たちが自決する、およそひと月まえのことである。
 

二本松少年隊には菊がよく似合う

 
 

二本松の酒蔵

 檜物屋(ひものや)酒造店は、東北本線二本松駅から歩いて数分のところにある、こぢんまりとした風情のある酒蔵である。この日は女性客が3人、酒蔵での試飲を終えて、買い物をしているところであった。酒蔵を巡るツアーがあるらしい。二本松には四つの酒蔵がある。確かにタクシーでこの四つの酒蔵を見学するツアーがあったら楽しいだろうと思う。
 
 私は知人へのお土産に千成功金瓢(せんこうなりきんぴょう)、そして新幹線で飲むためのワンカップを買った。千成功金瓢は普通酒だが、実に美味い。米は酒造りに適した酒米ではなく、二本松産の「天のつぶ」という食用米を使用しているというこだわりも良い。地元の人たちはみなこれを飲むので、あまり市外に出まわらないようだ。出荷する酒の8割以上が二本松市内で消費されているという。地元の人たちに独占されるのはもったいない。機会があれば是非多くの人に飲んでもらいたいと思う。
 
 千功成という変わった名前は、秀吉の馬印として知られる「千成(せんなり)ひょうたん」に由来している。千の功績が成る、千功成というわけである。二本松藩主であった丹羽光重は、豊臣秀吉とともに織田信長に仕えた丹羽長秀の子孫。ここにも檜物屋酒店の心意気を感じる。
 

 
 
fukunomoのおかげで黒塚を知ることができた。黒塚と二本松少年隊、そして檜物屋酒造店。この三つが私にとっての二本松である。
 

皆人の 心の奥のかくれ家に 鬼も仏も 我も住むなり

 

  

Fukunomo2020年7月号
仏教ウエブ入門講座
二本松市観光連盟HP
会津落城(星亮一)中公新書