西周「議題草案」
西周のこと
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- 津和野藩森家に生まれる。森鴎外は親戚。
- 津和野藩森家に生まれる。森鴎外は親戚。
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- 藩命で江戸へ行きペリー来航に直面。脱藩して洋学に打ち込む。
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- 幕府留学生として榎本武明らとオランダに留学。
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- 慶喜の顧問となる。
西は幕末のドラマによく登場する「万国公法」を訳した人物として知られ、「哲学」「知識」「概念」「芸術」「心理学」「意識」「命題」「帰納」「演繹」「理性」「感覚」「本能」「先天的」「後天的」なども、彼が作った訳語だそうです。
慶喜の諮問
大政奉還の前日の10月13日、ひそかに二条城に呼ばれた西は、慶喜から「英国の議院」の諮問に答えます。
西が大政奉還の際、慶応3年10月13日、慶喜に召されて国家三権の分立及び英吉利議事院の制度を問われ、概略を答え退いて即夜「西洋官略考」を草して翌朝これを上った(西周全集解説)
この文章は森鴎外の「西周伝」にある記述ですが、「西洋官略考」という文章の所在は不明のようです。この後11月下旬に、西は慶喜の側近である平山敬忠に「議題草案」を提出します。しかしこの時、すでに薩長藩は京都に兵を集結させており、翌12月9日には王政復古の大号令が出されます。こうして「議題草案」の構想は未完に終わってしまいました。
議題草案
議題草案は前文と別紙から成っていて、前文には幕府の政体改革意見が書いてあるそうなのですが、現代語訳がないので何と書いてあるのかさっぱりわかりません。別紙の内容は憲法私案というところで、こちらは少しは読めそうなので、素人ですが挑戦してみたいと思います。まずは、三権分立から始まります。
一 西洋官制の義は三権の別を主と致し候事にて…議政院は全国立法の権と相定め、公方様政府は全国行政の権と相定め、守法の権は今暫くの所、各国行政の権内に兼候事…
ここで、三権について述べられています。まず行政権を担う機関が議政院、今の国会にあたるでしょう。行政権は公方様政府ですから慶喜が今の内閣にあたる全国の行政権の長となり、司法は今のところ各国の行政が兼ねるとなっています。各国というのは、諸藩のことを指すのでしょうが、日本を全国と呼んでいるので、対する諸藩が各国というのも論理矛盾のような気もしますが、まだ新しい地方組織を郡と県とする、というところまで煮詰められていないのでしょうか。各国行政が司法を兼ねるというのは、なんともまだ中途半端な感じがします。
一 禁裏御領内 公儀御領内、諸大名封境内の政事は、議政院にて立定法度に関からさる丈は、其の主勝手に取り治むへき事
朝廷と諸大名の領内の政治は、議政院で定めた法律に抵触しなければ、勝手にしていいと書いてあります。勝手のニュアンスが現在とは違い、現代的な意味での地方自治とは全く異なるものでしょうが、封建的独立性を一定担保しているように見えます。一挙に封建的自立性を奪うことなく、一度それを担保して自己の権力を保持しようとする意向が見え隠れしています。この姿勢からは、現状維持の反面、漸進的な改革の可能性もあったと思います。
一 兵馬戦艦の権は公儀御領は御領限り、諸大名封境内は境内限、自国防禦の爲、入用丈の数を備候事、主の勝手たるへき事
公儀御領も諸大名の領地も、自国防禦のためなら、必要な武力を持っていてもいいよと言っています。ただしこのあとに、数年ののちに情勢が安定してくれば、軍事権を統括する策があるよとなっています。
一 禁裏の権の事
第一 鈐定の権 議政院にて議定致し候法度は、政府へ移し、禁裏へ上り鈴定を受けるべき事。但し異議は有之間敷事、右鈐定相済み候うえ、再び政府へ下り布告に相成り申すべきこと。
議政院で決定した法律は一旦政府へ移され、朝廷の「鈐定(けんてい)」を受けるとあります。「鈐定」の意味がここではよくわかりませんが、「鈐」の意味は印を押すとありますので、朝廷の印を押し、政府に戻すということだと思われます。すなわち、 朝廷は議定した法度に異議を唱えることなく、単に印をおして裁可するだけ、ということだと思われます。(「有之間敷事」の意味がよくわかりませんが、単に裁可するだけということと関連がありそうです。)
さらに、朝廷が印を押したら、法度は再度政府に戻ってきて、布告となるということが書かれています。
一 政府の権の事 第一 政府即ち全国の公府は公方様即ち徳川家時の御当代を奉尊奉りて是か元首となし、行政の権は悉く此の権に属し候う事
徳川慶喜は国家元首であり、これを奉り尊ぶこととあります。元首は対外的に国を代表する立場であり、行政の長とは国内的に行政権を執行する最高責任者を表します。すなわち現在の用語でいえば、大統領といったところでしょう。
第七 大君は幾百萬石の御領に有之候得は上院列座の総頭にて、両院会議に於いて両疑の断案起り候節は、一當三権を被
大君すなわち慶喜は上院の総頭であるということは、行政の長であると同時に立法府としての上院の長であると書いてあるようです。上院・下院で意見が異なる場合は、大君が決裁できるとあるように、慶喜は、行政の長である立法府でも長であり、数年の後には軍の長でもあるというように、三権の長として強大な権力を持つことになります。
第九 公府の官制は左の通り取り極め候の事
第一 全国事務府
第二 外国事務府
第三 国益事務府
第四 度支事務府
第五 寺社事務府
詳細はわかりませんが、全国事務府は総務省、外国事務府は外務省、国益事務府は通産省、度支事務府は財務省、寺社事務府は神社庁といったところでしょうか。現在の官僚組織がこれにあたります。
一 大名の権、即ち議政院の権の事
第一 上院は萬石以上大名列席、全国に関り候法度評議の上決定致し、大君へ捧げ候名にて公府各部の宰臣に送り候こと
第二 下院は藩士壹藩壹人宛、其藩上下総名代の名目にて、證書調印済み候の上、院列に列し上院同様法度議定の事、猶又更番の後、同人再撰可相許事
立法府としての議政院は二院制で、上院のメンバーは大名、下院のメンバーは各藩から1藩士1名とあります。下院もまた上院と同じく議定の権があり、再選が可能という意味だと思います。
鳥羽伏見の戦いの結果次第では
そもそも初めにアメリカやヨーロッパで学んだのは、幕臣たちでした。先進的な思想は彼らにこそ宿っていました。幕府による自己変革の可能性も、非常に高かったのだと思います。事実、ここにあるような明確な国家像を持っていたのは、幕府側であったともいえます。
しかし権力闘争である政治は、非和解的な対立となった場合には最終的には武力によって決着を図ることになります。政治思想が生煮えの慶喜では、しょせん武力闘争に勝てなかったということかもしれません。しかし私たちは、薩長という先見の明のある雄藩が、封建的で蒙昧な幕府を打倒した、という明治維新神話からだけは少なくとも自由になるべきだと思います。
参考文献
・西周全集
・国立国会図書館デジタルコレクション 別紙 議題草案