津久井やまゆり園事件に対する見解

はじめに

平成28年7月26日午前2時頃、本県の津久井にある障害者支援施設の津久井やまゆり園において、施設の利用者男女が同園の元職員であった植松聖(さとし)によって刺され男女19名が死亡、男女27名が負傷(うち3名は職員)するという大きな事件がありました。多くの方々が殺傷されたこと、そして犯人が「障害者なんていなくなればいい」といった趣旨の発言をしている(H26.7.26朝日)ことが、大きな衝撃でした。
 
あれから早くも7年がたっています。当時、神奈川県立平塚ろう学校の校長だった私は、校長会で声明文を出すことを提案し、県内の51校の特別支援学校の校長たちで構成する校長会として声明文を出しました。その一部をご紹介させていただきます。
 

 障害のあるなしで人を区別する前に、人は障害者である前に一人の人間であり一つの人格である、ということを深く心に刻むべきです。
 
 障害者は、人に頼ることが多い人たち、と思われているのかもしれません。しかし、人の手を借りずに何でも一人でできる人間などいない、という当たり前のことに目を向けてほしいと思います。社会生活は、多様な人間一人ひとりが支え合い、助け合うことによって営まれています。お互いに理解し合い助け合うことは、自分たちの持つ力を最大限発揮することのできる社会につながっていきます。障害者の存在を否定するような考え方は、こうした社会を否定することであり、ひいては社会の一員である自分自身を否定することになります。(平成28815日)

 
その後もこの事件について考える中で私がたどり着いた一つの結論は、障害者と健常者といった二項対立の思考をそのままにしておいたら、いつまでたってもこの問題は解決しないだろうということでした。つまり、障害及び障害者という概念を整理しなければ、障害者差別はなくならないだろうということです。
 
この事件の後にも、「障害者のことをもっと良く知らなくてはいけない」といった善意の言説が多く聞かれました。しかし、「障害者のことをもっと良く知ろう」という課題設定をした時点で、自分と障害者を別の存在としてとらえてしまっていることになります。ここに、障害者問題を考えるときの落とし穴があると考えています。
 
 

環境要因としての障害

日本語では、障害者の「障害」と障害物競争の「障害」が同じ漢字で表記されます。こうしたことから現在では「障がい」というように害の字をひらがなで表記することが多いですが、漢字をひらがなにしたからといって、障害という言葉の概念は変わりません。必要なことは、障害という概念を整理することにあります。
 
WHO(世界保健機構)による生活機能分類では、障害とはある人が社会に参加したりさまざまな活動をしたりしようとするときに、その人の健康状態や心や身体の機能の状態が要因となって、参加や活動が制限されてしまう状態をさすとされています。つまり、障害はその人に内在するものではなく、環境との相関関係により発生するという考え方です。
 
写真のように、駅にエレベーターがなく階段しかないとき、ここに障害が発生するということです。ですから、エレベーターが設置されれば、この場面における障害は解消するということになります。
 
 

障害という言葉

次に障害という言葉について考えます。障害という言葉を考える際には、英語と比較するとわかりやすくなります。
 
英語では心身の機能の状態を「インペアメント」、社会の障壁を「バリア」、心身の機能の状態が社会の障壁によって参加や活動を制限されている状態を「ディスアビリティ」といいます。英語では、これら三つの内容に対して異なる言葉がそれぞれにあてられています。
 
ところが日本語では、心身の機能の状態を「機能障害」、社会の障壁を「障害物」、参加と活動の制限を「障害」といったように、どの状態にも同じ「障害」という言葉があてられています。ですから私たちが障害とは何かを考えるときには、この三つの状態は内容的に全く異なるということを理解することが必要となります。すなわち、障害という言葉で思考をめぐらせていても事態を整理できないということです。
 
ですから、この写真の例で言えば、歩行が困難な状態を「心身機能の状態」、階段を「バリア」、障害を「活動の制限」として構造的に捉えることが必要となります。つまり、歩行が困難な人が階段しかない駅のホームには行くことができないので、電車に乗って外出することが制限される。この状態を「障害」という、ということです。このように事態を捉えれば、エレベーターをつけることによって問題を解決するという方向性がでてきます。私たちは従来の障害という言葉から自由になって、構造として障害をとらえないといけないということです。
 
 

障害者という言葉

次に障害者という言葉について考えます。障害者基本法には次のように障害者が定義されています。
 

一 障害者 身体障害、知的障害、精神障害(発達障害を含む。)その他の心身の機能の障害(以下「障害」と総称する。)がある者であつて、障害及び社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるものをいう。

 
なかなか意味を読み取りづらい文章です。理由の一つ目は、文の前半と後半をつなぐ「あつて」という接続の働きをする言葉の意味がよくわからないことと、二つ目は「心身の機能の障害」の「障害」と「障害者」の「障害」が異なる意味を含んでいるのに、同じ「障害」という言葉で表現されていることによります。
 
定義の前半では、障害者の定義の中に障害という言葉が出てきて、なおかつ障害の定義がされていません。定義の後半に「障害及び社会的障壁により」とありますが、これでは「障害」と「社会的障壁」との関係性が読み取れません。
 
先ほどの写真を例に障害者の定義をするならば、「心身の機能の状態が要因となり、社会的環境が制限として立ち現れてしまうことによって障壁となり、不利益をこうむる者」となります。すなわち、自分ではどうしようもないことで社会的不利益をこうむるのですから、こうした人に対しては社会的に支援しましょう、ということで様々な支援策がとられることにつながっていくのです。
 
これらのことを総合して考えると障害者とは、支援制度の対象となる人を定義した法律上の概念であって、生活の場面においては、ただ心身の機能において少数者である人がいるにすぎないといえます。つまり、障害者とは法律用語という観念的な言葉であって、具体的な生活場面において人は障害者としてあるのではなく、他の人と同様にただの人として存在しているにすぎないということです。
 
津久井やまゆり園事件の犯人は、障害者は一人の人間全体を包括する概念だと勘違いしています。だから機能の障害に起因する不幸が社会的要因との相関関係において発生するものであることを理解できず、障害者が現実に置かれている不幸をなくすには、その人を「抹殺」することが必要だと考えたと思われます。
 
しかし本当は、障害者を不幸な状態にしている社会的要因を解消する努力をするべきなのです。このような誤解による同様の事件を二度と起こさないためには、障害と障害者という言葉を深く吟味することが必要であると私は考えています。
 
 

結 論

  • 障害は個人がもっているものでなく、個人の心身機能と社会的環境との関係において生じるものである。
  • 障害者とは具体的な個人をさすのではなく、支援の必要な人を定義する法律上の概念である。
  • 障害、障害者、機能障害、障害物など異なる内容を同じ漢字で表現している言葉について、点検することが必要である。

 
津久井やまゆり園事件を表層でとらえて済ますことなく、障害概念の根源にまでたどって考察することなくしては、この事件に向き合ったことにはならないと考えます。