馬門山墓地


 馬門山墓地(旧海軍墓地)は、明治15年(1882)に海軍省が戦死や殉職した海軍軍人の埋葬地として開設した墓地です。新大津駅と北久里浜駅の中ほど、134号線沿いにあります。「まもんざん」と読むそうです。

馬門山墓地入口

拝霊堂

兵たちの墓

殉職者の碑


 馬門山墓地上段には写真のような殉職者の碑があり、静謐な空気が漂っています。

軍艦河内殉難者の碑

 軍艦「河内」は横須賀海軍工廠で建造された戦艦で、第一次世界大戦に参戦しましたが、大正7年(1918)徳山湾に停泊中発火・大爆発を起こして転覆・着底しました。この事故で621名が殉職しています。

軍艦筑波殉難者の碑

 軍艦「筑波」は呉海軍工廠で建造された巡洋戦艦で、第一次世界大戦における南洋諸島占領に参加しました。大正6年(1917)に横須賀港にて火薬庫が爆発、大破して着底。多くの殉職者を出しました。

特務艦関東殉難者の碑

 特務艦「関東」は、日本が拿捕したロシア艦艇を工作艦(艦船の修理・整備などを行う艦船)としたものです。大正13年(1924)舞鶴へ向かう途中、福井県の海岸沖で台風のため座礁沈没し、多くの殉職者を出しました。

北京籠城軍艦愛宕戦死者の碑

北京籠城軍艦愛宕戦死者の碑
 1900年、清国において「扶清滅洋」を主張する義和団事件が起こります。当時清国では列強と組んで義和団を鎮圧しようとする者と、義和団と結んで列強を中国から追い出そうとする者の内紛があり、清朝の実権を握っていた西太后は、後者の列強と戦う道を選択します。


 その頃、日本と欧米列強の公使館は北京に集中していました。義和団はこの北京を襲撃します。危機を察知した日本と欧米列強は、天津に集合している軍艦から水兵を北京に呼び寄せ公使館の守備につかせます。日本も天津大沽の常備艦である、海軍大尉原胤雄率いる愛宕艦の水兵24名が天津を出発、北京に入京しました。なおこの愛宕は、横須賀造船所で造られた砲艦です。この時各国の護衛兵は合計430名ほどになりました。一方、公使館区域にいた民間人は、老幼婦女300名を含む外国人800名、清国教民(キリスト教徒)3千人以上がいました。護衛兵は、これら民間人の義勇兵の力も借りながら、北京における籠城戦を戦うことになります。



 「北京籠城軍艦愛宕戦死者碑」
 しかし義和団だけでなく清国正規兵からも激しい攻撃を受け、列強の護衛兵や義勇軍は苦戦を強いられます。日本海軍陸戦隊24名中5名が戦死、無傷はわずか5名という厳しい戦いでした。この時の日本軍の総司令官は、公使館付武官の柴五郎砲兵中佐という人でした。この公使館付武官とは外国軍事情報の収集を役割とする参謀本部の中の一つの部署で、当時の公使館付武官は6名、その派遣先はイギリス、フランス、ドイツ、ロシア、清国、韓国でした。この柴五郎中佐は、冷静な判断と的確な指示で列強の軍隊と民間人から絶大な支持を得た人で、日本海軍陸戦隊に対し、次のような言葉を残しています。


わが軍隊陸戦隊の勇健なる働きは、実に賞賛に堪えません。彼らは下士以下非戦闘員ともに二十四名でしたが、常によく全体の骨幹になり働きました。彼らのなかにまったく無疵のものはわずかに五名だけで、五名は戦死し、他の十四名は負傷いたしました。その負傷も一度ならず二度、三度、はなはだしきは五度も銃傷を負い、繃帯にて頭を縦横に巻いて戦っているものもあれば、足をうたれて碌々歩けぬために、塹壕の中に坐ったままで戦っているものもありました。(柴五郎「北京籠城」)



 北京籠城軍艦愛宕戦死者之碑は、この5名の勇士を慰霊するものです。この碑のおかげで、北京籠城の歴史を知ることができました。そして、共に籠城した諸外国の人々から信頼を得た日本軍の活躍をこの碑から感じるとることが、戦死した人々への慰霊になるのではないかと考えさせられました。そして、柴は会津藩の出身者です。こうした人格こそ、まさに会津藩士の魅力といえます。


参考文献
 ○「北京籠城」柴五郎述、「北京籠城日記」服部宇之吉著 大山梓編 平凡社東洋文庫53
 ○「大系日本の歴史13近代日本の出発」坂野潤治著