官修墓地


 追浜駅を降りて正面の道をまっすぐ進み、横須賀市北体育会館の先、日産自動車総合研究所を右に折れ、正禅寺を過ぎてトンネルを抜けたところに官修墓地の入り口があります。

官修墓地入口

顕彰碑

西南役勇士の墓

官修墓地の話


 西郷隆盛が率いた西南戦争の時、九州に多くの官軍の兵士が派遣されました。その中に会津藩を中心に東北・北陸地方で徴募された「新撰旅団」という特設の部隊がありました。新撰旅団は西南戦争の最終決戦となった城山の戦いでも活躍します。

 この激しい戦いを終えた兵士たちは船に乗って東京へ帰ってきますが、この途中船内でコレラが発生し、あっという間に蔓延してしまいます。政府は伝染を恐れ長浦湾口に船を停船させ、死亡した者を浦郷村の黒崎(現在の浦郷3丁目)へ埋葬しました。明治19年のことです。その後この土地が海軍航空隊の用地となるに伴い、現在の場所に移転しました。

 埋葬されているのは遺族が不明だった四十八柱の殉国者たちとされています。この殉国者たちの戸籍をみると、東北・北陸以外にも関東から関西、そして九州の人もいますが、会津の人が入っていません。これには何らかの理由があると思われますが、西南の役全体でみると、会津藩出身者が多数兵士として参加しています。その部隊のひとつに士族兵を巡査という名目で採用した「警視隊」があります。わざわざ巡査という名目で採用した理由は、士族を兵士として集めてしまうと、一般の国民を徴兵する明治政府の「国民皆兵制度」と矛盾してしまうので、それを避けるための方策ということです。まあ、屁理屈みたいなものです。

 それよりも旧会津藩出身者にしてみれば、薩摩藩は自分たちを朝敵としておとしいれた憎き相手ですから、この西南の役で戊辰戦争の復讐をしてやろう、という気持ちもあったでしょう。小川原正道の「西南戦争」には、この間の事情が次のように書かれています。

幕末の政局において薩摩と会津はひとたび同盟関係にありながら、薩摩はやがて長州と手を握り、戊辰戦争で「官軍」として会津を討った。降伏した会津藩は下北半島の斗南に転封され、藩ぐるみの流罪ともいうべき極貧と飢餓の苦しみをあじわうことになる。当時少年だった柴五郎は、寒さと飢えに満ちた生活のなかで、「…生き抜け、生きて残れ、会津の国辱雪ぐまでは生きてあれよ、ここはまだ戦場なるぞ」(『ある明治人の記録』)と父に叱責されながら、吐き気をおさえて犬肉を飲み込んだと回想している。(*ここに登場する柴五郎はのちに北京籠城で活躍する柴五郎のことです。)


 幕末を思うにつけ、最大の悲劇は会津と薩長の確執にあるといえるでしょう。会津藩に対する仕打ちは本当にひどいものだと思います。ですから、ここ官修墓地に眠る殉国者たちが、内戦に勝利しながら家族のもとへ帰れなかった無念をよけいに 感じてしまいます。無念の魂がいつまでも慰霊されることを願います。

参考文献
○「官修墓地」追浜地域文化振興懇話会
○「西南戦争 西郷隆盛と日本最後の内戦」小川原正道著(中公新書)