会津藩士の墓



23基の墓がある腰越墓地 鴨居から209号線に沿って観音崎方面に向かい、観音崎大橋入口を道なりに左側へ行ったところに、会津藩藩士と家族の墓がある三昧堂(さめど)と呼ばれる場所があります。鴨居には、この場所の他にも会津藩士の墓があるお寺が複数あり、横須賀と会津藩の関係が深いことを表しています。

 会津藩が三浦半島の異国船防禦を命じられたのは文化7年(1810)、ペリー来航のおよそ40年前ですが、すでにロシアやイギリスの船が通商や食料・燃料の提供を求め根室や長崎にやってきた時代でした。



曹洞宗能満寺には11基の墓がある こうした時代を背景に、幕府は三浦半島の警備を会津藩に命じます。会津藩では、番頭の原田又助を筆頭におよそ500名の武士を派遣しました。番頭とは警備部門の最高責任者ですから、戦争になれば指揮官となる重要な役目を担う立場です。

 会津藩はこのとき、三浦半島(現在の逗子・葉山・横須賀・三浦)のうち、逗子の池子と奉行所のあった浦賀を除いた広い地域を藩領とし、3万石を与えられています。江戸時代には3万石以下の大名が55%を占めていたということですから、会津藩は三浦半島に一つの新しい藩を与えられたと言えるくらいの大規模な領地替えでした。



日蓮宗円照寺には6基の墓がある 三浦半島にやってきた会津藩は、鴨居と三崎に陣屋を設置しました。陣屋は出先の役所ですから、地域の中心となり、藩士たちもこの近くに住んだことと思います。鴨居に会津藩士の墓が多いのはここに理由があるのでしょう。

 この会津藩による三浦半島の海防は、文政3年(1820)に終了します。きっかけは、文政元年にやってきたイギリス商戦ブラザーズ号です。これは初めて浦賀にやったきた外国船で、会津藩の船がおよそ150艘でとり囲みますが、インドからロシアへ向かう途中に立ち寄っただけということで、何事もなく出港していきます。



浄土宗西徳寺には11基の墓がある この経験により、幕府は三浦半島の守りを浦賀奉行所が責任を持って行う体制としました。会津藩の替わりとなったのは小田原藩と川越藩でしたが、会津藩のような駐屯体制ではなく、援軍派遣という形になっています。浦賀奉行所の役割が大きくなったということです。新横須賀市史によれば、「かねてから海防役の辞退を申し出ていた会津藩の願いが聞き入れられ、相州警備の任務が解かれたのである」とありますから、会津藩にとっては、三浦半島の警備が負担になっていたということが分かります。




 会津藩はその後「京都守護職」として朝廷を守ったにもかかわらず、戊辰戦争において「朝敵」という汚名を着せられ会津戦争を戦い、最後は斗南藩へ追いやられ、苦難の道を歩くことになります。鴨居にある会津藩士の墓が悲しげに見えるのも、こうした会津藩の歴史を感じるからかもしれません。

 なぜあの時、官軍はあそこまで会津を攻める必要があったのか。婦女子の壮絶な最期や、健気な少年部隊である白虎隊の悲劇。これが近代日本の統一にとって、本当に必要な戦いであったのか。暗澹たる気持ちにさせられます。


参考文献
○「新横須賀市史 通史編 近世」 横須賀市
○「会津藩はなぜ「朝敵」か」   星 亮一著 ベスト新書
○「会津落城」   星 亮一著 中公新書
○「幕末の会津藩」 星 亮一著 中公新書
○「江戸幕府崩壊」 家近 良樹著 講談社学術文庫