横須賀歴史エリア構想

明治維新エリア






 太古から江戸時代まで、それぞれの時代において歴史の痕跡を強く残してきた横須賀ですが、なんといっても幕末の時代こそ横須賀が刻んできた歴史の白眉といえるでしょう。司馬遼太郎も「街道をゆく」シリーズの「三浦半島記」において「幕末の動乱が、すべてこの三浦半島久里浜からはじまったのである。」と言っています。

 久里浜へのペリー来航を受け、国内は「開国か攘夷か」で大きく揺れ動きます。幕府は開国やむなしという判断で、開明的な幕臣たちはこれを機に国を強くし、外国に対抗できる「近代日本」をつくらなければならないと考えます。勝海舟が説いた海軍の必要性もこの理由によるものでした。小栗忠順は万延元年(1860)に遣米使節団として世界一周した人物として、日本の近代化に大きな貢献をしています。吉田松陰は尊皇攘夷を説きますが、これはまず国を強くしてから開国すべきだ、という考え方なので単純な開国否定ではありませんでした。このように横須賀にまつわる人物たちは黒船を見て衝撃を受け、幕府という封建社会から「日本」という統一国家の必要性を感じ取った人たちでした。

 「開国か攘夷か」という課題は、外国の実力を見せつけられる中でやがて「いかなる形の統一国家をつくるか」という課題に変わっていきます。一番初めの動きは「公武合体論」でしたが、これは幕府と朝廷の連合政権であり攘夷を目的に幕府をそのままの形で残そうというものですから、やがて脱落していきます。幕府という形式は封建諸侯という制度にのっている政権なので、すでに政権担当能力はありません。幕府に代わる統一国家を担当する政権の形が構想されていきます。

 小栗忠順の構想は藩を廃止して郡県制として徳川慶喜が統一国家の元首になるイメージだったので「徳川家大統領制」と呼べるものです。また勝海舟の考えは、幕府にはすでに政権担当能力がないため、幕府を除く薩摩・長州等による「雄藩連合政権」、吉田松陰はかなり情緒的な印象もありますが「天皇親政」と類型化できると思います。

 ペリーが来航した久里浜、ペリーと堂々と渡り合った中島三郎助のいた浦賀奉行所、アメリカに渡る勝海舟が断食をした東叶神社、吉田松陰と佐久間象山がここで会って話をした徳田屋旅館、こうした歴史の残る浦賀から久里浜周辺を明治維新エリアと呼びたいと思います。

ペリー公園浦賀奉行所叶神社