横須賀浦賀めぐり


 浦賀のまちは、横須賀市の中で最も魅力のあるまちです。浦賀は西浦賀・東浦賀があり、双方を渡船がつないでいます。この渡船は享保年間から続いている、ということですから、300年近くにわたって浦賀のまちを眺めてきたことになります。当時の浦賀は綿作の肥料である鰯を干した「干鰯」を商う問屋で栄えており、全国からこの「干鰯」を求めて船がやってきたといいます。
 その後、幕末になるとペリー来航や咸臨丸の船出など、日本と世界をつなぐ結節点の役割を果たしてきました。そして勝海舟が断食した東叶神社や、海舟がよく訪れては鰻を食べていたという「うなぎの梅本」など、今でも当時を偲ばせる名所・名店の残る土地でもあります。

「歴史のまち・うらが」浦賀コミュニティセンター分館

西浦賀

大衆帰本塚



江戸時代後期、この近くにあった火葬場を移転した際に、残っていた遺骨(無縁仏)を集めて石碑が作られました。碑文は中島三郎助の筆によるものです。旅の途中で亡くなった人たちも多くいたのでしょう。

西叶神社



文覚上人が、源氏再興という願いが叶ったので、源氏一門の氏神である石清水八幡宮を勧請して建てた神社です。西叶神社を建てたお坊さんが、頼朝に挙兵を勧めたあの文覚上人だとは知りませんでした。

東福寺



江戸幕府から土地を安堵され、就任した浦賀奉行が必ず参拝したという、由緒あるお寺です。ここの書院で、横須賀造船所の見聞に来た小栗忠順と中島三郎助が会話したことが、小説「北の海鳴り」で紹介されています。

愛宕山公園



明治42年(1819)に開園した市内で一番古い公園です。公園と言っても石碑の他には何もない場所ですが、「浦賀園」という入り口の看板が残っています。階段を上ると咸臨丸出港の碑、さらに上ると三郎助招魂碑があります。

奉行所跡



享保5年(1720)下田からここへ奉行所が移されました。当初は東京湾を出入りする船の荷物の改めなどが主な仕事でしたが、やがて異国船から江戸を防備する海防の最前線となります。敷地を取り囲む堀の石垣は当時のものです。

船番所跡



船番所は享保5年(1720)に下田から浦賀へ奉行所が移ってから、江戸へ出入りする船の積み荷(生活必需品だけでなく、武器や江戸に住まわせた大名の妻女の出入りなど)を管理し、取り締まりました。

常福寺



浦賀における本陣の役割をしており、奉行は着任・離任の際に立ち寄っていました。奉行所から常福寺へ行く途中に江戸時代の石橋が残っています。愛宕山を借景した庫裏の庭園は、勝海舟がよく訪れ心和ませていたそうです。

大六天榊神社



この神社は、川間の鎮守様です。大六天とはこの世の中で最も高い天上界の中のでも最高位の世界で、ここを超えると欲望を離れた清浄な物質界である色界に行くことができます。社殿の左右に石川善吉親子の鏝絵があります。

寿光院



ここは常福寺境内の外に作られた仏堂です。江戸時代後期、遊ぶ金欲しさに船の綱や網を売って死刑になった三人を弔う「三命地蔵」や咸臨丸の副館長格としてアメリカに渡った、浦賀奉行与力の浜口英幹のお墓があります。

為朝神社



源為朝は頼朝の父の弟にあたる人物ですが、身長が2mを超える大男だったそうです。最後は大島に流され自害して果てました。為朝神社には、航海と疱瘡除の神として祀られています。

燈明堂跡



浦賀湾西岸の先端にある灯台です。明治5年に廃止されるまでの220年間、一日も休まず灯をともし続けました。観音崎灯台ができ、その役割を終えました。

川間町内会館



石川善吉は明治から昭和を生きた漆喰細工の名人です。ここの鏝絵は息子の梅尾が昭和34年に作成したものです。土蔵造りが盛んだった浦賀は、漆喰壁を塗る職人も多かったそうです。

東浦賀

八雲神社



須佐之男命を祭神とする神社で東浦賀一丁目の鎮守様です。向拝の龍は木彫りの彫刻に見えますが、実は漆喰で作られているものです。

乗誓寺



墓地の高台から眺めた浦賀湾です。ここが浦賀湾のベストショットスポットです。この寺の住職は代々曽我十郎の子孫が継いでいます。

顕正寺



日蓮宗のお寺です。あの山口瞳のお墓があります。墓石が変わった形をしています。なんでも麻雀牌の形だそうです。

東耀稲荷



屋根の向かって右に豊穣の神である大黒様、左に幸福をもたらし恵比寿様の飾り瓦がのっています。干鰯で栄えた東浦賀の繁栄ぶりをうかがわせます。

専福寺



小林一茶の日記によれば、初恋の人がここに葬られているので、6月2日の命日に、一茶は金谷から船に乗り、浦賀のこのお寺に墓参に訪れたとあります。

東林寺



墓地には、浦賀奉行所与力であった、中島三郎助親子の墓があります。また、入口には江戸屋半五郎が建てた「南無阿弥陀仏」と刻まれた石塔があります。

法幢寺



ここにも見事な鏝絵があります。本堂正面の外壁に描かれているのは、魔除けの神獣唐獅子です。大正15年の作品です。山城園というのは山号(さんごう)といって仏教寺院につける称号です。この場所が、浦賀城の一廓であったことを物語るそうです。

東叶神社



東浦賀の鎮守様です。七福神の一人、弁財天も祀られています。拝殿を過ぎると恵仁志坂(えにしざか)と産霊坂(むすびざか)という名前の坂があります。二つ合わせると「縁(えにし)結び」となります。坂を上りきったところに奥の院があります。

浦賀城跡



東叶神社のある明神山ふもとから山頂へ上ると、ペリーが停泊した海が見えます。この場所は、北条氏康が房総の里見軍に対抗して作った浦賀城です。ここは、アメリカへ向かう勝海舟が断食した場所でもあり、浦賀ドックで殉職した人たちの慰霊塔もあります。

西叶神社の社殿彫刻

棟木を支える力士



叶神社の彫刻は、安房の代表的彫刻師である後藤利兵衛の代表作です。

向拝の龍



参拝客の礼拝を迎える向拝(ひさしのついた部分)にある龍です。

棟木を支える力士



屋根の中心となる棟木(むなぎ)を力士が左右両方で支えています。

愛宕山公園

咸臨丸出港の碑



昭和35年(1960)に日米修好通商条約の締結100年を記念して建てられた碑です。裏には勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎などの乗組員の名前が書かれています。

中島三郎助招魂碑



「碑の篆額(題字)は三郎助と公私ともに親交があり五稜郭で共に闘った榎本武揚が記した。除幕式の日に三郎助の意志を継いだ造船所を浦賀で開業することが決定した」とあります。

与謝野夫妻の文学碑



黒船を怖れし世などなきごとし浦賀に見るはすべて黒船(鉄幹)
春寒く造船所こそ悲しけれ浦賀の町に黒き鞘懸く(晶子)

浦賀の鏝絵

大六天榊神社の昇り龍



大六天榊神社の昇り龍



八雲神社向拝の龍



江戸屋半五郎という人物

西叶神社の水盤

西叶神社に寄進した水盤

江戸屋半五郎は、浦賀で遊郭を営んでいた任侠でした。しかし、贅を尽くしたこの遊郭が浦賀奉行からとがめられ取り壊しを命じられた半五郎は、江戸へ出て遊興三昧の生活をしていました。

東林寺の念仏塔

東林寺入り口にある念仏塔

そんな時一人の高僧から、人の一生は短く遊興にふけっている時間などないことを諭された半五郎は浦賀へ戻り、すべての財産や家を処分して遊女たちに分け与えて国へ返し、自分は京都で仏門に入ってしまいます。

常福寺にある墓地

常福寺にある墓地

その後、紀州の山で修行をし「深本」と名を改め浦賀に戻った半五郎は、現在の浦賀警察署の辺りにあった地蔵堂で念仏三昧に日々を過ごしたそうです。墓碑は西浦賀の常福寺にあります。