佐久間象山のこと


象山塾跡。今はこの説明板があるのみです。 1853年(嘉永6)年6月3日午後、浦賀沖にペリー艦隊がやってきます。この知らせを聞いた佐久間象山は翌朝、浦賀へ向け出発します。象山はこの時期、江戸木挽町に住居を定め、儒学と砲術を教えていました。4日の夜に浦賀についた象山は5日、海を一望できる高台からペリー艦隊を眺めます。すでに3年前に三浦半島の砲台を見て回り、「これでは、とても夷狄の船などうち沈めることはできない。」と考えていた象山の、見立て通りの現実がそこにはありました。


これは蛤御門。この中に中川宮邸があった。 象山はその後、密航を企てた吉田松陰に漢詩を贈ったことをとがめられ、国元の松代で9年もの長い蟄居生活を送りました。蟄居が解かれると、幕府の招請を受け、京都で開国の朝廷工作を開始します。孝明天皇に近い皇族の中川宮から「一昨年そちが京都にきていてくれたら、天下はこんな姿にはなっていなかっただろうに」と言われています。象山の考えをもっと早く聞いていれば、朝廷も攘夷ではなく開国に傾いていただろう、という中川宮の嘆きです。


 右側が象山の碑。左側は大村益次郎の碑。連日のように派手ないでたちで馬に乗り、宮家や公卿を訪問しては開国論を説いていた象山は、尊王攘夷派の武士に暗殺されてしまいます。この日も、中川宮の兄弟である山階宮邸から三条木屋町の寓居に戻る途中でした。高瀬川のほとりに、大村益次郎と並んで、碑が立っています。1864年(元治1)3月、幕命により上洛してからわずか4ヶ月後の7月11日のことでした。浦賀で目にした情景を心にとどめ、浦賀を支点に京を動かし国を救おうとした象山の信念が、ここに眠っています。


兵部大輔大村益次郎公遺跡 ちなみにこの場所は高瀬川沿いにありますが、高瀬川を挟んだこの碑の向かい側には、大村益次郎が常宿としていた場所があります。現在この場所は、川床料理のお店となっています。大村益次郎はここで襲われ怪我をします。風呂場に隠れて難を逃れ高瀬川で淀方面に下り治療を受けますが、この時の怪我が原因で死亡します。現在大村は、靖国神社の入り口に銅像となってそびえています。

人と思想「佐久間象山」清水書院


鳥羽伏見の戦い


明治維新 伏見の戦跡 薩摩藩が陣を構えたのが御香宮(ごこうのみや)神社でした。京都近鉄駅桃山御陵前駅から歩いてすぐの場所にあります。神功皇后をまつる安産・子育て祈願の神社です。門前の燈篭が歩道を塞いでいて、というより後から歩道が出来たのですからこれは致し方ありませんが、あまり見られない光景です。この御香宮神社に伏見の戦跡という碑があります。

伏見奉行所跡 この御香宮神社の南正面わずか数百メートルの所に、幕府軍が立てこもって戦った伏見奉行所がありました。現在は団地になっていて、わずかに地名が奉行所前とあるだけですが、団地の土地の一部が石垣になっているのは、当時の遺構だと思われます。この場所で、鳥羽方面での大砲の音を合図に戦いが始まりました。


 松風山西運寺(通称狸寺) 伏見奉行所の幕府軍は北と東を囲まれていました。ここ西運寺(さいうんじ)にも大砲が置かれ、奉行所を攻撃しました。この寺は京阪宇治線の観月橋駅からすぐの場所にあります。別名たぬき寺と呼ばれており、たぬきが集まるお寺として有名で置物の大きなたぬきが出迎えてくれます。写真右上にわずかにたぬきが見えます。


会津藩駐屯地跡(伏見御堂) 御香宮神社、伏見奉行所から近鉄京都線、京阪本線の線路を越えて大手筋通りの商店街を少し左に入ると、会津藩士が宿陣した伏見御堂があります。現在は、山門と鐘楼が残っています。鳥羽伏見の戦いの始まる前日の1月2日、大阪方面から船で来て京橋から上陸した会津藩先鋒隊約200名がここに駐屯しました。


京橋 大阪から淀川を北上して上陸した会津藩士たちが上陸したのが、この京橋です。会津藩先鋒隊は、ここから上陸し伏見御堂で宿陣します。ここはまた、伏見奉行所で戦っていた幕府軍や新選組が、御香宮からの薩摩藩の攻撃を受けて敗れ、民家に火を放ちながら淀方面に敗走したという、鳥羽伏見の戦いの激戦地でもあります。


戊辰役東軍戦死者埋骨地 淀方面に敗走する幕府軍は、ここ千両松で新政府軍と戦います。現在、横大路(よこおおじ)から納所(のうしょ)と呼ばれるこの一帯は、当時は芦のしげる湿地帯でした。ここで会津藩精鋭の槍隊は、長州藩の銃撃を受け全滅します。会津藩の突貫槍を恐れる長兵は、会津槍隊の潜む芦の茂みに銃弾を撃ち込んで戦ったのでした。


淀小橋旧跡 淀小橋旧跡は、京都競馬場のある淀駅から歩いて5分程の場所にあります。淀城へ入城しようとする幕府軍は、淀小橋を焼いて敗走します。淀藩主稲葉正邦は幕府の老中という重役ですから、当然幕府側の人間です。ところがこのとき藩主は留守で、淀城を守っていた家老が新政府軍の調略を受け、城を閉鎖し幕府軍を受け入れませんでした。こうして幕府軍の敗北は決定的になっていきます。


淀城跡 苔のむすような、わずかな城壁だけが残る現在の淀城です。淀藩に寝返られた幕府軍は、淀城東南の宇治川と木津川を越えた現在の八幡市にあった橋本関門に最後の防禦線を張ります。幕府軍はここで奮闘しますが、今度は淀川対岸の山崎関門を警備していた津藩藤堂家が新政府軍に寝返ってしまいます。こうして、慶喜の大阪城逃亡を迎えることになります。

野口武彦著「鳥羽伏見の戦い」中公新書