浦賀と会津を結ぶ


横須賀佐原にある佐原義連の城跡。 三浦半島の相模湾側に芦名という地名があります。三浦半島のほぼ中央の西寄りにある大楠山から相模湾側に向かう一帯が現在の芦名です。かつてこの一帯を領有していた武士団が三浦氏佐原一族の葦名系と呼ばれています。そしてこの葦名氏は、会津盆地を支配していました。
 ことのおこりは、源頼朝の奥州征伐、当時の佐原一族の大将である義連が、その功績により会津盆地一帯を与えられたことに始まります。当初は鎌倉にいて幕府に仕えていた葦名氏でしたが、やがて鎌倉での勢力を失い、会津の黒川(今の会津若松市)に館を構えるようになります。この館が鶴ヶ城の前身とされています。このように会津で勢力を伸ばした葦名氏ですが、最後は伊達政宗によって滅ぼされてしまいます。
 佐原義連が会津に所領を与えられたのが文治5年(1189)、そののち代を重ね1300年代に会津へ本格的に移住し、1500年頃に会津地方をほぼ統一、そして天正17年(1589)に滅亡ですから、約400年にわたり会津を治めたことになります。


会津藩士の墓が並ぶ墓地。 江戸時代後期、文化7年(1810)から10年間、三浦半島を防衛する任にあたったのが、他ならぬ会津藩士でした。会津藩は浦賀の鴨居に陣屋を置き武士を住まわせ、観音崎・城ヶ島そして浦賀の平根山に設置された台場の運営にあたりました。陣屋には、藩士や足軽およそ500人が常駐していたといいます。ですから、浦賀には会津藩士の墓が多く残っています。ここからも、浦賀と会津の深い関係をうかがい知ることができます。


浦賀腰越にある墓地のアカマツ。 平成17年4月17日、横須賀市と会津若松市は友好都市を締結しています。平成27年には「友好都市提携10周年記念事業」が行われ、会津若松市から市長、市議会議長をはじめ88人の市民親善交流訪問団が横須賀市を訪問しています。会津藩士墓地(腰越墓地)には、会津若松市から贈られた同市の木であるアカマツが植えられています。

「浦賀奉行所」西川武巨著(有隣親書)
「わかりやすい会津の歴史」(歴史春秋社)