発達障害について


 初めに発達障害を取り上げて障害について考えてみたいと思います。様々に個性の異なる子どもたちがいますが、子どもは子どもです。発達障害についても、その本質は普通の子どもと同じであり、何ら特別なものではない、という認識が共に学び共に育つ教育を支えると私は考えています。

発達障害と呼ばれる現象、つまり精神発達の足取りが一般より大きくおくれる現象をみてゆくと、それは脳の「故障」が引き起こす病的(異質的)な現象というよりも、人間のこころの構造、こころがどう形成されてゆくかという発達の構造からおのずと生じうる現象としか見えない。「普通のこころ」が普遍的にはらむ本質のあらわれの一形態で、「普通でないこころ」のあらわれではない。(滝川一廣「非国家論としての共同幻想論」)


 発達障害の定義に触れるとき、「これって誰にでもあてはるようかことが多いよな?」という感覚は、割と誰にでもある感覚ではないでしょうか。その感覚を論理的に説明しようとすると、ここで滝川の言うような論理になると思います。例えば自分のことでいうと、こんな経験をいつもしています。

 私の家は、私と妻の二人住まいですが、休みの日に妻は私によく「洗濯機回った」と言います。私はなぜかこの言い回しが妙に癇にさわって、「だから何なんだ、ちゃんと『洗濯物干してくれ』と言え」と思います。けれど恐くてそうは言えないので、腹の中で思うだけにして、表面上「は〜い」などと答えて洗濯物を干しています。

 自閉症の子どもの特徴の例として、電話に出て「お母さんいますか」と聞かれたときに、「います」と言って電話を切ってしまうことがある、という説明を聞くことがあります。これは、行間を読むとか、相手の気持ちを配慮するとかいうことが苦手なんだ、ということです。私は自分が「洗濯機が回った」という言い回しに不快感を感じる心情と、この自閉症の子どもの例はどこか共通点があるような気がしています。

こころの世界は、ひとつには、空間的な共同性の世界である。身近な家族からそれを取り巻く社会まで、さらに国から全世界にまで広がった共同世界との関係によって私たちのこころの世界はなりたっている。私たちは成長の過程でこの関係的な共同世界をより深くより広げてゆくわけだが、その歩みが相対的に大きくおくれるものが自閉症と呼ばれている。(同上)


 滝川は世界との関わりを空間軸と時間軸でとらえ、空間的な世界との関わりにおいて歩みが遅れるものを自閉症と定義しています。人は成長するにつれ、人間関係を含め生活圏を広げていきますが、自閉症の子どもはこの空間世界との関係性の意識をうまくつくれないという意味だと思います。そこで、自閉症児の療育においては構造化のアイデアというものが使われます。例えば、広い空間の中では落ち着かない場合、意識を集中させるために机のまわりについたてを三方にたててブースをつくり、作業に取り組むようなことを行います。また、同じ場所で作業をしたり休憩したり食事したりすることは混乱を招くため、作業をする場所、休憩する場所、食事する場所をわけたりすることもあります。

 これも我が身に引き寄せて思うことがあるのですが、私の家にはフォークとナイフの6本セットが二種類あります。柄の色がクリーム色と赤色のものです。これを収納しておく入れ物も二種類あり、この入れ物の色はフォークセットと同じくクリームと赤色です。私は、食器を洗ったあと、クリーム色のフォークとナイフはクリーム色の入れ物に、赤色のフォークとナイフは赤色の入れ物にいれます。しかしそれが一週間もすると色が入り混じっているのです。妻が適当にしまうため、法則性が壊れてしまうのです。これが家庭における私の最大のストレスとなっています。この家庭内の争いはもう30年続いており、常に私の敗北に終わるのですが、この私のこだわりは、空間における一対一対応が落ち着くといった自閉症の特徴と、どこかでつながっていると思っています。

こころの世界は、もうひとつには、時間的な共同性の世界である。私たちのこころの世界は長大な歴史時間をかけて積み重ねられてきた文化的な共同性からなっている。成長の過程でこちらの共同性を獲得する歩みが相対的に大きくおくれるものが精神遅滞と呼ばれている。(同上)


 滝川によれば、自閉症が空間的な共同性の世界を獲得する歩みのおくれであることに対し、精神遅滞(知的障害)は時間的な共同性の世界を獲得する歩みのおくれとされています。これはどういう意味かというと、世界には知識や技能の集積があり、個人はそれを学校や家庭や友達との関わりの中で、学校でいえば教科書の勉強などを通じて獲得していきます。このとき、世界が蓄積してきた知識や技能といった文化的な共同性を獲得する速さは人によって異なりますが、この歩みが人より大きく遅い子どもが知的障害児と呼ばれる、ということです。

 ここでもまた学生時代を振り返れば、誰もが自分は人より遅れていたなあという感じをもつのではないでしょうか。自分より勉強ができる奴は必ずいるわけですし、試験で100点ばかりとれるわけではないのですから。

 このように考えてみると、自閉症にしても知的障害にしても、障害のあるなしということには、なにか絶対的な基準があるのではなく、それこそ相対的な問題でこれは連続しているのだ 、「普通のこころのはらむ一形態なのだ」ということが言えると思います。

 これらのことを前提に教育について考えてみます。これまで障害のある子どもの教育は「特別支援教育」と呼ばれてきたように「特別」なものでした。しかし、現在は「インクルーシブ教育」と呼ばれているように、障害にあるなしにかかわらず、全ての子どもたちが共に学び共に育つ環境を整えることに主眼が置かれるようになってきました。障害のあるなしは連続しているわけですから、一緒に学ぶ方向性は当然のことです。そための心理学的基礎は、「障害」が「普通のこころ」のはらむ一形態であり「普通のこころ」と別にあるのではない、という点に存在します。つまり、「普通のこころ」が障害として立ち現らわれる「場面」を人間誰もが持ち得るのだ、ということです。このことは、障害を絶対的なものと考えることなく相対的なものとしてとらえるべきだ、という視点を私たちに提供してくれます。

我々は障害児を教育するのではない、子どもを教育するのだ。(ヴィゴツキー)


 この視点こそ「インクルーシブ教育」にとって必要な視点であるといえるでしょう。