二分脊椎の意味

はじめに


 平成28年7月26日午前2時頃、本県の津久井にある障害者支援施設の津久井やまゆり園において、施設の利用者男女が同園の元職員であった植松聖(さとし)によって刺され男女19名が死亡、男女27名が負傷(うち3名は職員)するという大きな事件がありました。多くの方々が殺傷されたこと、そして犯人が「障害者なんていなくなればいい」といった趣旨の発言をしている(H26.7.26朝日)ことが、大きな衝撃でした。

 犯人は、犯行に及ぶおよそ5ヶ月前の2月15日、永田町にある衆議院議長公邸を訪れ、警備にあたっていた警察官に手紙を渡したということです。この手紙には、「障害者は不幸を作ることしかできません。」「障害者を殺すことは不幸を最大まで抑えることができます。」といったことが書かれています。(2016.7.26ニュース速報Japan)

 この事件に対しては、多くの批判・抗議や各種団体からの声明文等が出されました。国においては「相模原市の障害者支援施設における事件の検証及び再発防止策検討チーム」が設置されて、同年8月から12月にかけて検討が行われ、12月8日に「再発防止の提言」として報告書が出されています。この報告書において、事件を引き起こした背景は「障害者への一方的かつ身勝手な偏見や差別意識」であり、「一人ひとりの命の重さは障害のあるなしによって少しも変わることは無い、という当たり前の価値観を社会全体で共有することが何よりも重要である。」とされています。


 この報告書に書かれていることは確かにその通りで、不断にこのような価値観を社会全体で共有できれば、それにこしたことはないでしょう。しかし、価値観を社会全体で共有する、ということは本当に可能なのでしょうか。価値観とは、この場合は善悪を判断するときの基準のことですが、それは人によって異なります。「一人ひとりの命の重さは変わらない」という価値観を共有するかどうかは、結局は個々人の判断にゆだねられてしまいます。犯人には犯人なりの、自分では信じている価値観があります。価値観で議論をしていては、議論は平行線です。

 犯人は、やまゆり園の入所者は障害者だが自分は健常者である、というように自分と他者を切り離し、別のカテゴリーの存在としてとらえています。その結果、自分がこの世に存在することは自明のことであり、一方で障害者はいなくなるべきだ、という不健全な妄想を抱くまでになっています。このような自己中心的かつ独善的な考え方に対し、「一人ひとりの命の重さは変わらない」という価値観の訴えは一般の良識的な人々には届いても、犯人のような考えを持つ者には届かないのではないでしょうか。問われるべきは、自分と他者を切り離し別のカテゴリーの存在としてとらえる、という認識の根底であると私には思えます。ここに踏み込まない限り、この事件の犯人のような考え方が生まれてしまう土壌を一掃することは不可能だと思います。


 このような事件の根絶をめざすのであれば、障害について、私たちはもっと深く考える必要があると思います。本当に人間を障害者と健常者に分けることができるのでしょうか。人を障害の有無で分けて、こちらは健常者、そちらは障害者といった分け方ができるのでしょうか。障害とはそもそも何でしょうか。私たちは障害をひとくくりにして何かわかったような気になっていますが、一つひとつの障害について本当にきちんと知っているのでしょうか。私は、一つひとつの障害について具体的にみていくと、障害者と健常者といった線引きがどうもあやふやになっていく気がしています。疾病の結果としての機能障害は確かに存在します。しかし、犯人が言うような意味での障害者はどうも存在していないように思えるのです。以下、こうした視点で私の考えを述べてみたいと思います。

1 二分脊椎(にぶんせきつい)について


 まず初めに、障害とは何かを考えるにあたって、二分脊椎という疾病を例に考えてみたいと思います。

 二分脊椎になると、脊髄(神経の中枢)の正常な発達が妨げられ、その結果、筋力の低下や熱さや痛みを感じないといった症状がでます。この症状が運動障害や感覚障害と呼ばれます。この二分脊椎という疾病を理解するには、脊髄と脊椎の成り立ちから理解する必要があります。まず初めに脊髄の成り立ちをみてみます。

(1)脊髄の成り立ち

① 脊髄の形成

図1
http://spider.art.coocan.jp/ 新しい生命は、精子と卵子が結合して受精卵ができたときに誕生し、細胞分裂を繰り返しながら胎児へと成長していきます。その初期の段階で、神経板というものができます(図1上)。この神経板がくぼんで神経溝ができ(図1中央)、やがて神経溝は丸くなり左右が結合し、図のように閉じて神経管となります(図1下)。こうしてできたのが神経管で、ここから脊髄が形成されます。神経板はもともと外胚葉と呼ばれる組織の中央部が盛り上がって形成されたもので、神経板が分離した後の外胚葉は、図1下のように、閉じて背中側の皮膚となります。


図2

http://www.ssa11.net/yousan-sapuri/ 図2の左側の胎児はこれを縦にみた図です。神経板は、背中の真ん中部分から閉鎖を始め(これを癒[ごう]という)、癒合しながら上下に伸びていき、最後に管の上と下が閉じて完成します。こうして始めは板状だった神経板は、丸く円柱状の神経管となります。この神経管が脳と脊髄の原型で、受精後4週間目くらいに出来上がります。伸びた神経管の先は脳となり、脳の下から背中にかけては脊髄となります。人間の肉体と精神が、一枚の板からできる、というなんとも驚愕な話ではあります。

 脊髄はこうしてできあがるので、その過程で神経管が閉じない、というリスクが発生します。神経管が上で閉じない場合、脳が完成せず無脳症となり、神経管が下で閉じない場合が二分脊椎となります。そしてこのリスクは、全ての胎児が負っているものです。私たちの誰もが、このリスクを背負いながら子宮の中で育ってきたのです。


② 脊髄の構造

図3
https://www.kango-roo.com/  正常に発達した脊髄の構造は、左図3のようになっています。脊髄内部は、一番外側の硬膜という硬い膜で覆われて保護されています。この完成された脊髄は、上記の神経管が成長したものですから、最終的に癒合が行われなかった場合、脊髄の内部構造である神経組織が硬膜を飛び出してしまうことになります。

 このように神経管がうまく閉じないと、脊髄をおおう脊椎も影響を受け、脊椎の成長が阻害されてしまいます。神経組織が脊髄の形成段階で外へ飛び出した結果、脊椎もまた形成不全となり二分脊椎が起こる、ということです。


(2)脊椎の成り立ち

 次に、脊椎の成り立ちを見てみます。脊椎もまた、脊髄とでき方が似ているところがあります。

① 脊椎の形成

 骨の形成は、始めに骨核(こっかく)というものができ、その骨核が大きくなっていくことで形成されます。下の図4は脊椎を上から見た図です。図4の下半分が腹側の骨で椎体(ついたい)といい、上半分が背中側にある骨で椎弓(ついきゅう)といいます。椎体が受精後およそ8週までに作られた後、椎弓が形成されていきます。空洞になっている部分を椎孔(ついこう)といい、ここに脊髄が収まります。椎孔の両側にある一次骨化核(中央にある三角形の椎孔の両脇)が矢印のように横と斜め上の方向に伸びていくことによって、全体が形成されます。

 すなわち、椎弓の一次骨化核から斜め上に向かって矢印が出ているように、脊髄の通り道となる椎孔は、もともと孔(あな)として形成されていたわけではなく、椎弓が矢印のように形成された結果として、空洞になっている、ということです。つまり椎弓は、左右両側から伸びていき、上で癒合するわけです。これが椎弓の成り立ちです。

図4
http://www.nakanobuseitai.com/*下半分が椎体、上半分が椎弓。椎体の中心部の大きい丸と上半分の椎孔の両脇の色の濃い部分は、初めに骨が形成される骨核なので一次骨化核(いちじこっかかく)と呼ばれ、矢印の方に向かって成長していく。椎弓の左右両端の色の濃い丸い部分はその後形成される骨の核となる部分なので二次骨化核と呼ばれる。


② 脊椎の構造

図5 
meddic.jp  出来上がった脊椎を横から見ると、図5のようになります。腹側には椎体と椎間板(ついかんばん)が交互に重なっています。椎間板はクッションの役割をする柔らかい骨です。背中側には椎弓があります。椎弓は図4にあるように、椎体の両側から背中側に橋状に出ている骨です。二分脊椎は、この椎弓が閉じていない状態です。

 椎体と椎弓の間にある空間が脊髄の通り道である椎孔で、ここに脊髄が収まります。二分脊椎の場合は椎弓が閉じていませんから、ここから脊髄が外へ出てしまうことになります。


(3)二分脊椎の状態とタイプ

 二分脊椎というのは、読んで字のごとく脊椎が二つに分かれている状態、ということです。一口に二分脊椎といってもその状態は様々ですが、大きく分けて下の図6のように分類されています。左側がいわゆる正常な状態の図です。中央に脊髄が伸びていて左側が腹側で椎体があり、右側が背中側で椎弓があります。

 左から二番目が潜在性二分脊椎と呼ばれ、脊椎の異常が表面から見えないタイプです。椎弓の一部が欠けています。そのため、弱い部分を保護するように背中に毛が生えています。

 右側二つが開放性又は顕在性二分脊椎と呼ばれ、脊髄が脊椎の外へ飛び出していることが表面からわかるタイプです。左側は、脊髄を覆う硬膜が袋状に背中に飛び出した状態で、髄膜瘤(ずいまくりゅう)と呼ばれています。右側は、硬膜だけでなく脊髄の内部組織の一部も一緒に飛び出し背中に露出している状態で脊髄髄膜瘤(せきずいずいまくりゅう)と呼ばれています。

                図6


http://www.geocities.jp/blackwildhamster/nibunsekitui.html

2 疾病と障害


 このような、二分脊椎という疾病の結果、主に次のような三つの障害が現れます。

  1. 運動障害;随意運動のうち、特に下肢(太ももの付け根から足の先まで)の運動が困難。足の指や足の関節の動きが悪い程度の場合から、下肢が全く動かせない場合まである。
  2. 感覚障害;熱さ・痛み・触られた感じ・押された感じなどがない。そのためケガや火傷をしても気づかなかったり、床ずれができたりする。
  3. 膀胱・直腸障害;オシッコがうまくできない・我慢できない、便がうまくできない・我慢できない。


 ここで、疾病と障害の関係を整理すると、二分脊椎という「疾病」により、運動・感覚・排泄機能などに「障害」が起きる、という関係になります。そしてこうした機能障害のある人を一般に障害者と呼んでいます。これは、どんな疾病にかかったかということでなく、その結果としての機能障害が障害者と周囲の人たちの関係を媒介する要素になっているからでしょう。機能障害のある人をこのように障害者と規定することは、一方で支援の必要性という認識を生み、一方で差別的な負の感情を生む危険性をもたらします。しかし、障害は疾病の結果として起こるものですから、まずは疾病について理解を深める必要があります。

3 疾病をどうとらえるか


 ここまで、二分脊椎という疾病がどのようにして発生するのかみてきましたが、ここでは、二分脊椎という名称について考えてみます。この名称には、疾病というものに対する私たちの認識が反映されているからです。

 脊椎が二つに分かれているわけですから、確かにこれは二分脊椎と呼ばれる状態です。しかし、脊椎が二つに分かれている、という見方は、結果からみればそうですが、成り立ちからいうと、癒合しなかった状態ということです。一つのものが二つに分かれたわけではありません。ですからプロセスを表現するならば、二分脊椎という言い方より、癒合せずにおわった脊椎という意味で、未癒合脊椎といったような言い方の方が適当だと思われます。二分脊椎という名称は完成形を前提とした呼び名となっているために、プロセスが表現されていません。

 名称は認識に基づいて決定されます。二分脊椎という名称は、脊椎が癒合することを前提とする認識に基づいています。ですから、癒合した脊椎と比較して、「二つに分かれている」という認識を示す名称となっています。ここにある認識は残念ながら、癒合することが正常で、癒合しなかった状態を異常と見る見方を内包しています。結果から見れば確かに、脊椎が癒合している者と癒合していない者に人間は二分されます。このようにプロセスをみずに結果だけを見てその視点を固定化してしまうと、私は正常あなたは異常、という差別的な意識が発生する危険性が生じます。

 さらに、二分脊椎をプロセスから考えると、脊椎が癒合しないという事態は脊椎のでき方の中に発生の必然性をもっていることがわかります。図4にあるとおり、一次骨化核を中心に骨が形成されてゆき、最後に癒合して終わるという成り立ちをみると、脊弓が閉じる過程で、それがうまく閉鎖しない可能性をはらんでいることが構造上の問題としてあることがわかります。そして実際、人間の身体構造は、それぞれのパーツによって、ある一定の確率で最後まで完成しないことが往々にしてあるわけです。それでは、二分脊椎の発症率はどのくらいでしょうか。

 二分脊椎に関するホームページ※によれば、10人に1人くらいは脊弓が1~5個ほど欠けた状態(脊椎披裂[ひれつ])があるそうですが、この状態は特に何の支障も出ないようです。脊椎披裂の状態は図6には載っていませんが、この図の正常と潜在性の中間に位置づくと思われます。次に、潜在性二分脊椎がおよそ100人に1人くらい、開放性二分脊椎のうち、髄膜瘤が1,000人に5人程度、脊髄髄膜瘤は10,000人に5人程度の割合で現れるとあります。仮に1万人の集団を想定すると、統計的には、その中におよそ1,000人の脊椎披裂・およそ100人の潜在性二分脊椎・およそ50人の髄膜瘤・およそ5人の脊髄髄膜瘤の人がいるということになります。疾病が重篤になるに従い発生率も減少していきます。   

*参考HP:日本二分脊椎研究会・難病情報センター・なかのぶ整体院


 これを、発生の順番に並べ替えてみます。人間の集団は、その人体の完成に向けて発達していくわけですが、途中で発達が止まる人が少しずつでてきます。受胎後、初めに発達を止めたのは神経管でした。このとき、硬膜が閉じずに神経組織が外に出たままになる事態が発生します(脊髄髄膜瘤)。次に、硬膜は閉じたけれども脊弓が形成されずに、脊髄が外に飛び出す事態が発生します(髄膜瘤)。次に、脊髄は形成されたけれども脊弓が欠けてしまう事態が発生します(潜在性二分脊椎及び脊椎披裂)。そして最後に、脊椎が閉鎖し完成します。

 疾病をこのような視点で見てみると、完成に向けて発達をスタートした胎児ですが、一部の胎児はその脊椎の成長を途中で止めてしまう、ということがわかります。これは、脊椎というものはそもそも、全ての人間において完成するわけではなく、一定の未完成を生みながら、多くの完成へたどり着いている、ということを示しています。具体的には、開放性二分脊椎も潜在性二分脊椎も、どちらも脊椎の成長のプロセスの途上に現れるものであり、開放性二分脊椎→潜在性二分脊椎→完成した脊椎という流れは連続性をもっている、ということです。つまり、完成にまでたどりついた脊椎の背後には、完成にまでは至らなかった未完の脊椎がある、ということです。そして、未完の脊椎はある一定の割合で、必ず発生します。このことは、完成された脊椎は自力で単独に完成したのではなく、未完成の脊椎に依拠しながら、それら未完成の脊椎にいわば支えられて完成までたどりついた、と解釈することができます。1万人のうちの一部の人がこのリスクを引き受けることによって、その他の多くの人間の脊椎は「完成に近い」形へとたどりついているのです。ある一定の割合で常に二分脊椎が発生しているということは、こうしたことを意味しています。

 このように、二分脊椎は生物体としての人間がその生存を維持・継続する過程で必然的に発生するものですから、他の人間と関係なく一人の人間に発生するという性質のものでなく、人間のうちの誰かが二分脊椎を引き受けることが決まっている、という意味で構造的なものである、ということがいえます。ここで、人間を個体としてみるのではなく、集団としてとらえる視点が必要となってきます。疾病のある人ひとりだけをとらえて疾病を考えるのではなく、疾病のある人とない人を合わせた集団における、疾病のある人の「疾病」に焦点をあてて考える必要がある、ということです。例えば1万人の集団を想定してこの1万人という単位で脊椎の成長を俯瞰してみると、成長を始めた1万体の脊椎はその成長の過程でおよそ5つの骨髄髄膜瘤を生み、およそ50の髄膜瘤を生み、およそ100の潜在性二分脊椎を生み、およそ1,000の脊髄披裂を生み、そうしてようやく残りの「完成に近い」脊椎にいたるわけです。

 このように、疾病を考えるときに、個人の疾病だけをみていても正解はでてきません。人間集団をみる、もっといえば、疾病のある部位を取り出してそれを集合的にみる視点が必要です。そうすれば、疾病は特定の個人に発生するのではなく、人間集団に発生している様子が見えるはずです。1万体の脊椎の成長のグラデーションとして、それらは存在しています。ですから疾病は個人が一人で抱え込んで受け止めるものではなく、人間が集団として受け止める、すなわち社会全体の課題として受け止めるべきものなのです。ですから私たちは、疾病を個人の問題として個人へと追いやるべきではありません。そうではなく、疾病は人間集団にもたらされているものなのですからこれに対しては共同的に対応するべきなのです。それが、私たちにとっての正しい判断といえるでしょう。

 人間の体というものは、未完成から完成にいたる連続性の中にあり、その未完成が疾病と呼ばれ、未完成は集団としての人間にとって必然であり、未完成が完成を担保するのです。さらに言うならば、人体の最終的な完成形などというものはありません。なぜなら長い生物の歴史をみれば、生物は常に環境への適応を強いられ進化をくり返しているのですから、正常な発達などといってもそれは生物進化の発展途上の一形態にすぎません。「完成に近い」形と表現したのはそうした意味からです。人類の体は今でも発達途上にあり、個人の体は全て未完成です。このことは、二分脊椎のあるなしは、人間にとって相対的な違いにすぎないということを表しています。ですから、疾病を軸に人を分けて考えることはできないのです。そして、疾病がもたらす障害についても、当然、同様のことがいえます。

 

4 障害をどうとらえるか


 ここまで、疾病は身体機能の発達のプロセスの中に発生の根拠があり、それは誰にでも起こり得るものである、ということを見てきました。次に障害について考えます。

 二分脊椎の場合には、その結果、運動機能や排尿機能に障害がでます。これは現象としては、通常の成長をした人であれば普通にできることが、障害がある人にはできないことがある、ということを表しています。この障害観は、半分はあたっています。WHO(世界保健機構)によれば、「疾病→機能障害→能力低下→社会的不利」という考え方が今から15年ほど前までの障害の定義でした。疾病の結果として機能障害が起き、その結果能力が低下し、そのために社会的な不利をこうむる、ということです。これを二分脊椎にあてはめてみると、二分脊椎→運動機能の障害→運動能力の低下→様々な生活場面での不利というように、見事にあてはまります。津久井やまゆり園事件の犯人は、まさにこのような障害観を持っているようにみえます。

 ところがこの定義は、障害についての一面しかとらえていません。事実このWHOの障害概念は、平成13(2001)の改訂を受け、ICF(国際生活機能分類)として大幅に修正されています。新しい障害概念を表す以下の図7は、障害というものは、病気を原因とする心身機能・身体構造という生命レベルにおける機能障害だけが要因なのではなく、むしろ環境因子との相関関係こそがその要因である、ということを表しています。すなわち障害とは、環境因子によって活動と参加が阻まれている状態を示す概念となっています。これが、医療モデルから社会モデルへの転換と呼ばれているものです。

図7 ICF(国際生活機能分類)の概念(2001年WHO)

*表中「心身機能・構造」は、正確には「心身機能・身体構造」http://www.dinf.ne.jp/



 二分脊椎のある人をこの概念図にあてはめてみると、健康状態の所に「二分脊椎」が、心身機能・構造には、「運動・感覚障害、排泄障害」が入ります。そのために活動も参加もできていない状態だとするとこの状態にある人はいわゆる障害者です。しかし、環境因子としてこの人が参加できる運動プログラムとヘルパーが用意され、個人因子として参加の意欲が起きた場合には、活動と参加が保障されることになります。このとき、生命レベルにおいては障害があっても、生活レベルと人生レベルにおいては活動と参加が可能となっているので、この場合は障害者ではありません。

 この障害概念による障害者の規定は従来とは全く異なっています。障害は場面によって現われたり消えたりします。ここには、障害者と健常者がいるのではなく、障害の有無にかかわらず、人は誰もみな生活機能が満たされた状態か参加と活動を阻まれた状態かの、いずれかの場面にある、ということになります。つまり、固定的な意味での障害者は存在しなくなります。

 このように、すでに障害はある特定の個人に対し、時間と場所を問わず常に張り付いているような概念ではなくなっています。障害は人を指すのではなく、人と環境の関係を指す概念となっています。つまり、人+機能障害⇒障害者ではなく、機能障害+環境⇒障害、ということです。ここでは、「障害者はこの世からいなくなったほうがいい」と犯人が言ったときに使われた意味での障害者は、すでに存在していません。ただ、犯人には、ある固定された障害者のイメージがあります。だとすれば、こうした「障害者をこの世からいなくする」には、犯人は自分の頭の中の障害者の概念を解体すればいいだけだったと言えます。

 このように、ICFの考え方によれば、障害は個人に内在するものではなく、環境とのかかわりによって発生するものとなります。車いすの利用者が、駅にエレベーターができれば不便なく外出できるように、障害とは環境が生み出していることになるからです。ここでは、障害者という概念は解体しています。ここにあるのは、個人として下肢に機能障害があるという事実と、環境によってはその環境(例えば階段)がこの人にとって障害(機能障害の障害と区別するためにバリアといった方がわかりやすいかもしれません)となっているという事実です。ここから必然化されることは、個人への必要な支援の提供と、バリアをなくしていくという環境改善の取り組みということになります。これらの取り組みを推し進めてゆけば、障害者という概念は制度的な支援の対象、という意味に純化されていくでしょう。そしてやがては、支援の対象としての障害者という表現がもっと実態をよく示す言葉に代わってゆけば、最後には障害者という言葉は死滅していくでしょう。

5 まとめ


 ここまで、疾病と障害について考えてきました。疾病をプロセスとして、そして障害を環境との相関関係としてみることにより、疾病も障害も絶対的なものではないことを明らかにしてきました。すなわち、疾病のある人とない人、障害のある人とない人、というように人を実体として区別することはできない、ということです。

 ここを間違えて、疾病や障害を固定化してとらえると、私は健常者だが彼は障害者である、というように、私と彼を別の属性を持つ存在とする認識ができあがります。ここから差別の発生する危険性が生まれす。結果から事象をみて、その結果を固定化し絶対化する視点が、差別を生むわけです。

 しかしこれまで見てきたように、障害者と健常者という二分法は固定的なものでなく、流動的で相対的なものです。障害者と健常者という二分法の根拠は希薄であり、絶対的な線引きはできません。疾病にかかり障害をもって生まれるかどうかは、成長のプロセスにおいて偶然に決まるものであって、最初から運命づけられているものではありません。自分は障害がなく生まれたといっても、その可能性を常に内在させながら成長してきたのです。すなわち、障害をもって生まれる可能性について、すべての胎児は運命を共有しながら育っているのです。

 「障害者はいらない」といった考えは、自分を絶対的健常者と誤解していることによります。しかし、誰もが疾病にかかる可能性を持っていて、自分が疾病にかからなかったのは、たまたまに過ぎません。彼でなければ私やあなただったのです。このように、二分脊椎の成り立ちを知ることは、結果を固定化し、未完成を欠如ととらえる認識が誤りであることを明らかにします。健常者と呼ばれる自分と障害者と呼ばれる彼との間には、何ら絶対的な差異はない、という事実を知ることは、差別的な意識の発生を回避する可能性をもたらします。

 誰もが常に疾病にかかり障害が起きる可能性をもっていたり、環境によって障害のある状態を経験したりすることがあり得るのです。人間集団は未完成の体をその集団の中に抱えながら共同的に生存していく生物です。ですから「障害者を抹殺する」などということは、論理的にいってあり得えません。それは人間集団のすべてを抹殺することと同義なのですから。

 最後に、初めの「当たり前の価値観を社会全体で共有する」という報告書の内容に戻ります。価値観の共有というテーマについては、自分の価値観はそれとは違う、と言われてしまえばそれで終わりです。しかし、これまで見てきたように、具体的な障害についての客観的な事実に対して「それは違う」ということはできません。なぜならそれは、誰も否定できない<事実>だからです。価値観の共有ということではなく<事実を知る>ということこそ、「障害者なんていなくなればいい」といった言説が妄想にしか過ぎないことを明らかにするはずです。

 障害者に対する偏見をなくすために、障害者のことをもっとよく知ろう、という善意の考え方があります。ここでいう障害者とは、実際に障害のある具体的な人をさしています。しかし、偏見をなくすためにわざと障害者について知ろうとするのは目的と手段を取り違えてはいないでしょうか。人は、なんらかの必然や偶然によって知り得た人と知り合いになればいいのです。さらにいえば、障害者と知り合いになったからといって、それだけで差別意識がなくなるわけではありません。事実犯人は、障害者施設の職員だったのです。そしてそもそも、障害者に対する差別意識の根拠は、<障害者を知らない>ことにあるのではありません。<障害について知らない>ことにあるのです。

 障害者のことをもっとよく知ろうという発想は、そもそも出発点からそのベクトルを間違えています。なぜならこの発想は、自分はこちら側にいて、障害者はあちら側にいる、という錯誤をなんら疑っていないからです。この錯誤を解かない限り、津久井やまゆり園事件は決して解決しないでしょう。障害者と健常者に通底する同一性を明らかにすること、そして、障害は個人に発生しているのではなくて、「集団としての人間」に発生するのだという<事実>を知ること、だから人間はこれを共同的に引き受けるのだという<自覚>を持つこと。このことが、解決へ向けた方途です。

 私たちは一つひとつの障害について、より深く知り、その知識を共有しなければなりません。「共に生きる」というスローガンそれ自体が事態を解決することはありません。


引用画像:以下のホームページ
 図1:高校生物 動物の発生
 図2:健康と美容のためのコツと心がけ 葉酸が不足したときに起こる問題
 図3:看護roo! 脊髄損傷に関するQA
 図4:なかのぶ整体院 整形外科学ブログ
 図5:さいたま市整体・アゼガミマイロプラティック 知っておこう!腰痛
 図6:透析Study
 図7:DINF 障害保健福祉研究情報システム
 図8:厚生労働省