僕が跳びはねる理由のこと

はじめに


 津久井やまゆり園事件に対する根源的な批判は、障害を生命と人類の発達の連続的な歴史のなかで捉えることによって、個人に発生しているようにみえる障害が、実は類としての人間に発生する、人類にとって必要不可欠な現象である、ということを証明することによってのみ成立しうる、と私は考えています。

 このことを以前に、二分脊椎について考えることで追及しました。今回は、自閉症を取り上げ、同じテーマを考えてみたいと思います。

 ここに、「自閉症の僕が跳びはねる理由」という一冊の本があります。文庫版では角川文庫から平成28年6月25日に初版が発行され、平成29年8月10日の時点で14版が発行されています。NHKスペシャルでも、作者である東田直樹さんの紹介がされていました。自閉症の子どもとのコミュニケーションに悩んでいる親たちにとって、この本は救いの本であることがこのドキュメンタリーから理解できます。東田さんは、ヨーロッパでは三島由紀夫、村上春樹についで有名な作家ということです。

 二分脊椎は、脊椎が二つに分かれていることからその名前がついていますが、成り立ちから見るとそれは分かれているのではなく、骨の成長が途中で止まり結合(癒合と呼ばれています)にまで至らなかった脊椎のことです。結果だけ見れば正常な脊椎と障害のある二分脊椎があるということになりますが、成り立ちから見れば、癒合に向け成長していく脊椎のうち、途中で成長が止まってしまった脊椎がある、ということになります。この癒合は胎児の時に起こりますから、全ての胎児の脊椎は二つに分かれている、すなわち二分脊椎とは、全ての人類が胎児のときに通過した脊椎の形であるということです。

 脊椎は脊索という脊椎の基礎となる部分が脊髄を守るように取り囲むことによって出来上がります。すなわち脊椎は初めから円柱になっているのではなく、脊髄の両側から伸びていった骨が最後に反対側で結合しているのです。ですから、全ての人間の初期の脊椎は二つに分かれているのです。人類は胎児の一時期、誰もが二分脊椎の状態にあるということです。

 この事実は、障害というものを固定的に見る見方を相対化し、人類に共通の現象としてみる見方を提示してくれます。障害というものは、人類が人類として存続していくために、必要不可欠な必然的な現象なのです。自閉症もまた同じはずです。そしてこの「自閉症の僕が跳びはねる理由」には、まさにこのことが書いてあります。東田直樹さんは現代の人ですが、太古の人類の未明の意識とおそらくは同質の胎児のときの無意識を意識化することによって、自閉症とはどういう現象なのか私たちに教えてくれているようです。それは、単に自閉症の解説にとどまらず、人間という存在の秘密を示唆しています。私たち人間は、決して個人として存在しているのではなく、類として存在している。このことの理解が彼の言葉を本当に理解することにつながると思います。そして障害は人類にとって普遍的な現象であるということを理解することによってのみ、「障害者はこの世に必要ない」といった言説を根底から批判できると考えます。この本には、共生社会ということの、真の意味が書かれています。

記憶について


僕は、いつも同じことを聞いてしまいます。・・・どうしてかと言うと、聞いたことをすぐに忘れてしまうからです。・・・よくは分かりませんが、みんなの記憶は、たぶん線のように続いています。けれども、僕の記憶は点の集まりで、僕はいつもその点を拾い集めながら、記憶をたどっているのです。(「3 いつも同じことを尋ねるのはなぜですか?」)


 私(たち)は誰でも記憶が途絶えることがあり、忘れていることがあります。忘れていることを思い出そうとするとき、なんとか思い出そうとして点をたどりながら線で結んでいこうとします。このとき頭の中で何が起きているかと言うと、おそらくは働きをやめていたニューロンが他のニューロンの働きかけで復活し、そこに電流が流れることによって途絶えていた記憶が現在の認識とつながった、といったようなことが起きているのだと思われます。

 そうすると、私(たち)の記憶と東田さんの記憶に、本質的な違いはないように思われます。違いがどこにあるかというと、私(たち)には線のように続いている記憶が多いけれど、東田さんの記憶にはそれが少ないということ、そして私(たち)は一度つながった記憶はしばらく忘れませんが、東田さんの場合、一度つながった記憶がすぐに元に戻って途切れてしまう、ということだと思います。ですから、構造としてみれば、私(たち)と東田さんの間に断絶した特徴はなく、両者連続している、とういうことが言えそうです。現象としてだけ見ると確かに生活場面においては、両者の間には違いがあります。「あの人は聞いたことを全部忘れる」「あの人は毎回毎回同じことを聞く」というように。けれどよくよく考えてみれば、これは程度の違いにすぎない。これが「障害」というものの正体ではないでしょうか。

時間について


 時間は人間が発明したものです。人間は過去と現在と未来という概念を生み出しました。そして過去、現在、未来という概念はそこに時間という概念を析出しました。概念は言葉によってもたらされます。ですから人間は、言葉によって時間を生み出したといえるでしょう。野間俊一はこのことを「身体の時間」(筑摩選書)において、「元来、時間の流れとは、私たちが意識をして、とくに言語を用いて、過去と現在と未来を差別化することにより成立している」と述べています。

 時間という概念がまだ成立していなかった太古の人類は、さぞ不安だったでしょう。切れ目なく続く日々、大雨や寒気などの気象現象は、太古の人々の生活を脅かしたでしょう。人はいつしか老いてゆき、やがて息が途絶え動かなくなり朽ち果てていく。なぜこうした事態が自分たちにもたらされるのかわからない、こうした不安。しかしやがて人間は時間という概念を手に入れることにより、漠然とした未明の意識から脱出し、世界を構造化していきます。一日を繰り返すことにより人は生きていく。誕生から死への道程は誰もがくり返す人生である。それは年をとるということである。こうした認識を得て人は見通しをもつことを学び、そのことにより不安を回避するすべを手に入れていきます。過去と未来の結節点としての現在という概念を措定し、この現在という地平に人間は、自己のアイデンティティを確立する磁場を確立しました。

 一方、東田直樹氏は時間についてこう述べています。

ずっと続いているのが時間です。だからこそ、はっきりとした区切りがなく、僕たちは戸惑ってしまうのです。(「34 時間の感覚はありますか?」)

 
 ここには、太古の人類が感じていた、不安とないまぜになった漠然とした未明の意識があるように思われます。時間は誰にとっても自然的な感性としては区切りのないものです。しかし人はこれを区切ることによって日常を生きています。区切っているのは時間という概念です。それは人類が発明した、不安を回避する巧妙なメカニズムであるとも言えるでしょう。しかし東田さんには、この時間の概念が定着していないようにみえます。自閉症の人たちへの支援として時間の構造化というアイデアがあります。時間の構造化とは例えば一日のスケジュールを絵カードなどで視覚化して示すことにより、時間概念を外から環境要因として提供する、といったことを意味します。時間意識が定着していない分、時間を構造化した視覚情報を提供するというものです。

 太古の人間が長い長い時を経て時間意識を獲得してく中で、時間意識が定着しなかった一群の人たちがいる、これが自閉症の人たちかもしれません。ここに、自閉症の人たちが存在することの秘密があるような気がします。人間は同じ速度で同じ様態で進化を遂げているのではないのでしょう。生物の進化と呼ばれているものの実態は環境への適応・変化です。今生きている人たちは、なんらかの必然性があって存在しているはずです。自閉症と呼ばれる人たちは、この環境への適応・変化の一つの形なのではないでしょうか。人類が生き延びていくために必要とされている人間の一つの類型と考えられるのではないでしょうか。すなわち、時間意識の定着していない人たちは、人類の存続にとって何らかの意味を持っている、ということです。人は個人としてあると同時に、類として存在しています。自閉症をテーマに人類を考えるならば、自閉症と非自閉症の人間の組み合わせによって人類は、誰もが存在する必然と意義をもった集団として成り立っている、というテーゼがでてきそうです。

 人間を個人としてだけとらえていると、このダイナミズムはでてきません。人間を類としての存在としたとらえたとき、初めて障害の意義が見えてくるはずです。それは、人類は決して単体としての個人の集合体ではないということです。環境の変化に対し、たくさんの様態での適応・変化が生まれるのです。その一つに自閉症という存在様態があります。そしてこうした様々な様態の人間がいることによって、人類は存続の可能性をもつのです。ですから「障害者を排除する」という考えは、人類そのものの否定を意味することになります。

胎児


生物が生まれて進化して、なぜ陸に上がって来たのか、人になって時間に追われる生活をどうして選んだのか、僕には分かりません。水の中にいれば、静かで自由で幸せです。(「39 どうして水の中が好きなのですか?」)

 三木成夫「胎児の世界」(中公新書)によれば、羊水に浸っていた胎児の出生と、脊椎動物の上陸にはある関連性があるとされています。

古海洋学の成果を参照すると、この羊水の組成は古代海水のそれと酷似する。脊椎動物の上陸が“海水をともなって”おこなわれたことの証拠ではないか。


 三木によれば、胎児は母体の中で、35億年の生物の進化を1010日でたどります。そして「受胎の日から指折り数えて三〇日を過ぎてから僅か一週間で、あの一億年を費やした脊椎動物の上陸誌を夢のごとく再現」します。受胎32日の胎児の顔は魚とそっくりで、34日には両生類、36日には爬虫類、そして38日に哺乳類の顔になります。人類の祖先は海に住んでいたのです。そして陸上にあがった脊椎動物は、海を母体の中に孕みながら上陸しました。母体の孕む海、それが羊水です。羊水と海水の成分はほぼ同じといいます。そしてこの羊水の中で胎児は、魚類-両生類-爬虫類-哺乳類という進化の跡をたどりながら、この世に生まれてきます。東田氏が水の中に郷愁を感じることの根拠が、ここにありそうです。

 上陸した脊椎動物は、外界の認識の転換を余儀なくされます。海の中では必要なかった時間という概念が、陸上では必要になったのです。海の中の生物そのままの感覚機能であるかのような自閉症の人たちは、その感覚機能のまま陸上において生きていかなければならなくなったかのようです。ここに自閉症の人たちの苦悩があるのかもしれません。

 しかしこの感覚機能は、全ての人類がかつて経験したものであり、なおかつ今でも、心身のどこかに潜んでいる感覚でもあります。全ての生物は、海から生まれてきたのですから。

自閉症の人には自由がないのです。なぜなら、僕たちは原始の感覚を残したまま生まれた人間だからです。・・・ずっとずっと昔に帰れたら、きっと今のみんなのように生きられるでしょう。(同上)


 人は誰も、ずっと昔に帰ることはできません。ですから人類は、世界を時間軸に沿って整理するという構造化を行ってきたのです。自閉症の人たちが安心して暮らせるように、私(たち)は自閉症の人たちに、構造化という支援を提供することができるだけです。

 けれど、時間による構造化というこれまで人類が文明として築いてきたものが限界に達する領域で、その発想だけでは解決できない課題が発生するように思われます。そのとき、東田さんの持つ海の中の感覚機能は、時間軸に沿って整理された世界を揺るがし、刺激し、変化させ、豊かにするのではないでしょうか。そしてそもそも自閉症という状態が存在することの人類学的意義の一つは、そこにあるのではないでしょうか。次の文章は、このことの証左であるように思われます。

僕は、自閉症とはきっと、文明の支配を受けずに、自然のまま生まれてきた人たちなのだと思うのです。
これは僕の勝手な作り話ですが、人類は多くの命を殺し、地球を自分勝手に破壊してきました。人類自身がそのことに危機を感じ、自閉症の人たちを作り出したのではないでしょうか。
僕たちは、人が持っている外見上のものは全て持っているのにも拘わらず、みんなとは何もかも違います。まるで、太古の昔からタイムスリップしてきたような人間なのです。
僕たちが存在するおかげで、世の中の人たちが、この地球にとっての大切な何かを思い出してくれたら、僕たちは何となくうれしいのです。(「58 自閉症についてどう思いますか?」)


 今のところ、この東田さんの自閉症のとらえ方に科学的根拠はありません。しかしそれでも、この「自閉症の僕が跳びはねる理由」という一冊の書物には、人の感性に強く訴えかけるものがあります。私も東田さんと同じように考えています。人類は、さまざまなタイプの人々によって成り立っている。異なったタイプの人たちが集団として生きている、そこに私たち人間の生きる意味がある、と。