「伊藤博文 知の政治家」 瀧井一博著 (中央公論新社)
「文明史のなかの明治憲法」 瀧井一博著 (講談社選書メチエ)


博文の経歴


 博文は、1841年(天保12)9月2日、現在の山口県、当時の長州藩に生まれました。明治政府で活躍する同じ長州藩の出身者に木戸孝允や井上馨がいますが、木戸は1833年、井上は1835年生まれですから、博文は一つ下の世代ということになります。

 1863年(文久3)、博文は井上馨とともにイギリスはロンドンに向かいます。これは長州藩が西洋文明受容のため国禁を犯して5名の若者をイギリスへ派遣したもので、他の3名は先にロンドンに着いていました。世に言う「長州藩ファイブ」と呼ばれる人たちです。我が国初の西洋留学ということです。

 しかし博文の英国留学は、3年の予定が半年で切り上げられました。長州藩が外国船を砲撃するなど攘夷運動を激化させたことから、これを辞めさせるために急ぎ井上と伊藤が帰国したためです。この時博文は23歳です。その後大政奉還があり、時代は明治となりました。博文は明治政府の中で、徐々に重要な職に就いていきます。

 1870年(明治3)、博文は財政幣制調査のために渡米します。生涯2度目の外国行きです。この時博文は、アメリカの貨幣制度を学んで帰国し、翌年我が国初の貨幣法である新貨条例を制定しました。これにより日本はいちはやく欧米流の金本位国に参入することとなりました。この年1871年(明治4)の11月、今度は岩倉使節団の副使として73年にかけて約2年近い間欧米を視察することになります。この2年間で博文が手にしたのは次のような確信でした。

伊藤のなかにはかえって、西洋文明恐るに足らずとの確信が屹立していた。その根拠は何か。それはやはり、維新以来の開花政策の定着という事実があろう。明治国家初発の改革路線は、日本が文明国としての制度的枠組みを具備する手応えを与えた。開化して西洋列強と伍することは決して夢見事ではない。だが、その手順には慎重を期する必要がある。・・・かくして伊藤は、理念そしての開化主義と方法としての漸進主義を携えて帰国するのである。(「伊藤博文 知の政治家」)


 博文の帰国は1873年(明治6)9月でした。その後の日本は、翌1874年(明治7)の民撰議院設立建白書の提出、1877年(明治10)の西南戦争、そして1881年(明治14)の明治十四年の政変と、未だ国家の統一的な将来像が見えない情勢でした。こうした中、博文は今度は憲法取調として欧州へと出かけます。これは明治十四年の政変の結果、1890年(明治23)に国会を開設するという勅諭が出たことによります。明治十四年の政変とは、急進的なイギリス流の憲法を構想していた大隈重信を政府から追放した事件ですが、その時に大隈追放の代わりに、政府が天皇の名において国会開設の声明を出したものでした。

 漸進主義の名のもとに国会と憲法を時期尚早と考えていた博文ですが、これにより、博文にとっても憲法制定の タイムリミットが示されたことになります。

 こうして博文は、憲法調査のため1882年(明治15)3月にドイツのベルリンに入ります。その後ウイーン、再度ベルリン、ロンドンを経て1883年(明治16)8月に帰国します。それではこの憲法調査によって、博文は何をつかんできたのでしょうか。

シュタインに学ぶ


ウィーンに発つ前にベルリンで草されたとおぼしき書類では、「憲法の草案を翻訳するは佐迄難事に之無候へども、アドミニストレーションと共に之を見るに非ざれば其国の組織を知るに由な」しと明記されている。伊藤の脳裏には憲法とならんで、「アドミニストレーション」=行政の問題が浮かび上がっていたのである。したがって、伊藤の関心は、この憲法と行政の両者をつなぎ合わせ、統一的な国家像を獲得することに向けられたといえよう。・・・そのような国制論の修得こそ伊藤の求めて止まないものだった。そしてそれへの解答は、ウィーンにおいてもたらされることになるのである。(「文明史のなかの明治憲法」)


 憲法は英語のconstitutionの訳語です。constitutionには「憲法のほか、事物の成り立ちや構造という意味」もあります。博文がヨーロッパで学んだことは憲法を単に条文とのみ理解するのではなく、「憲法と行政の両者をつなぎ合わせ統一的な国家像を獲得する」という視点でした。 このことを博文に教えたのが、ウィーン大学の国家学教授のシュタインでした。シュタインによれば、「憲政(議会制)はその最も本来的な概念に基けば、行政の行為なくしては無内容であり、行政はその概念上、憲政なくしては無力」ということです。議会制度を補完して国家の公共的利益を実現するシステムとして行政が必要であるというシュタインの国家理論を学んで博文は帰国しました。


憲政制定に向けた制度改革


 伊藤にとっての憲法制定は、「行政諸制度をはじめとする国家諸機関」と「為政者と国民の意識」を憲法に見合ったかたちに作り変えるという、トータルな制度改革を意味していました。そこで帰国した伊藤は、憲法制定に先立ち、国家の政治システムを大幅に刷新していきます。

内閣制度の導入
 それまでの太政官制度における組織の長は太政大臣で公卿が就任するという慣例がありました。内閣制度では、組織の長は内閣総理大臣で、どんな身分の者でも就任することができるようになりました。

宮中府中の別
 太政官制度においては、宮中のことを取り扱う宮内省も太政官組織に含まれていましたが、内閣制度では宮内省は内閣には含まず、府中(政府)と宮中を分離しました。これは天皇を政治から遠ざける意図がありました。

大学制度改革
 立憲国家を支える近代的官僚を育てるための仕組みとして、帝国大学(今の東京大学)を設立しました。

枢密院の創設
 統治権の総攬者である天皇が政治的な意思決定を行う場合には、枢密院の場での審議を経て決定を行うこととしました。天皇の政治的行為のための諮問機関としての位置付けです。これは天皇の政治活動を制度化することにより、恣意的な意思決定を防ごうとするものです。

こうした国制の制度改革を経て、ようやく1889年(明治22)2月11日、大日本帝国憲法が公布されました。