「北の海鳴り」 大島昌宏著 (新人物往来社)

私は副奉行


 1853年(嘉永6)黒船が開国を求めて横須賀にやってきます。「外国船は速やかに退去すべし。この地に停泊することは許さない」というのが幕府の方針です。黒船使節団は、我々は米大統領の国書を皇帝に渡すためにやってきたので、日本政府の最高の役人しか相手にしないと主張します。浦賀奉行所の与力であった中島三郎助は、身を挺してこの事態を乗り切ろうとします。ペリー艦隊の旗艦サスクハンナ号に近寄り、同行する通訳の堀達之助が甲板に向かって叫びます。6月3日のことでした。

 「ここにおられるのは、この町の副奉行様である。我国の高官との間をとりつげる地位の方だから、貴方々はまずこの方と話をすべきなのだ。繰り返して言う。この方は副奉行様である。」


 三郎助は与力ですから副奉行であるというのはもちろん嘘です。浦賀奉行所の職制は「浦賀奉行-支配組頭-与力-同心」というものですから、そもそも副奉行という職はありません。実際に存在する職をかたるよりも、実際には無い職を名乗る方が堂々と嘘をつける、と三郎助は考えたのでしょうか。堂々とした三郎助の姿が目に浮かびます。

 このあと、「正奉行はなぜ来ないのか」との問いに、堀がとっさに偽りを答えます。「奉行が異国船に乗ることは国法で禁じられているのだ」と。「うそも方便」三郎助の父の教えです。

副奉行の証拠


 この後サクスハンナ号になんとか乗り込んだ三郎助ですが、使節の副官であるコンティ大尉から副奉行であることを疑われます。三郎助は間違いなく自分が副奉行であると答えます。するとコンティが、まわりに集まった日本の舟は一体なんのつもりだ、武力で追い払うぞと脅しをかけてきます。三郎助が水面を見ると確かに米艦を日本の小舟が取り囲んでいます。

 真下で二番船以下の同僚たちが不安げな面持ちで見上げ、その背後には寝具や食糧を積んだ固船が幾重にも控えて、銃口を向けている者も多い。反対側から見下ろしても固船が蝟集しており、四隻の米艦隊が三百艘ほどの小舟で包囲されているのが見てとれた。こうした際にとられる陣型、八陣の備えであった。三郎助は腰の扇子を抜き、さっと開いた。白地の扇面に、鮮やかな朱色の真円が現れる。彼はその扇子をかざし、勢いよく振った。
 「退(ひ)けい。直ちに退けい」
 彼は両舷を往復し、これ見よがしの大仰な動作で固船の解散を命じた。陣笠が陽光に輝き、甲高い声が海面を渡ってゆく。固船の陣形が次第に崩れはじめ、やがて潮が引くように鴨居の海岸や港内を目指して漕ぎ去っていった。

 「これでも疑われるか」


 見事に副奉行役を演じる三郎助ですが、本人はどんな心境だったのでしょうか。この後さらに三郎助は、国法をまげて明日この船に奉行を連れてくると勝手に約束してしまいます。気分はすっかり本物の副奉行のようです。

奉行の替え玉


 三郎助の報告を聞いた本当の奉行である戸田は、「予にアメリカ船へ参れというか」と唖然としますが、三郎助は「お奉行にも替え玉をつくるのでござる」と平然と答えます。

 もし奉行を派遣せず時を過ごせば、アメリカ側はどのような態度をとるだろうか。暫くは奉行の現れを待って時を過ごすだろうが、その限度は数日間でしかないだろう。船内を探索して得た感触だが、長い航海のあとで水や食糧、石炭などが多くは残されていず、任務の遂行を急いでいると思えるからだ。そして数日後、彼らは強引な火力を恃んで江戸湾に突入し江戸城を目指して老中との面会を強要するにちがいなく、そうなれば浦賀奉行所の無策ぶりが厳しく追及されるのは必定である。この場はひとまずアメリカ側の要求を入れ、浦賀奉行と名乗る人物を派遣して長崎へ回航するようあらためて説くのが策というものではないか。


 こうして替え玉として決まったのが、三郎助と同じ与力の香山栄左衛門でした。

アメリカを唸らす 


 翌6月4日、今度は「奉行」の香山がサスケハンナ号で交渉し、国書受け取りについては幕府の許可が必要だと猶予を願い出、3日の猶予を認めさせました。そして7日には江戸から国書を受け取るよう浦賀奉行所へ命がくだります。翌8日、国書授受の詳細を協議するために、三郎助と香山はサスケハンナ号に乗り込みました。協議を終えると米側は二人の知識を試すような行動をとります。

 まず二人の前に持ち出されたのは、径一メートルほどの地球儀であった。米側には、日本人の戸惑いを期待する底意地の悪い薄笑いが浮かんでいる。だが三郎助と香山は、交互に慣れた手付きで球体を回転させ、北米大陸を指してワシントンやニューヨークの場所を正確に指摘し、それらがアメリカにおける政治の都、商業の都であろうと明快に言った。さらに西海岸カリフォルニア一帯を示し、数年前に金鉱が発見されてアメリカだけではなくヨーロッパ各国からも一攫千金を夢見る人々が殺到していると聞くが、埋蔵量はどれほどのものかと訊ねた。米側の表情から次第に薄笑いが消え、驚きの色に変ってゆく。


 おそらく日本人は地球儀などみたこともないだろうと考えていたのでしょう。ところが彼らは地球儀を知っていただけでなく、アメリカの地理や歴史などについてもしっかり勉強して知っていました。さらに二人は旺盛な知識欲をみせます。

 香山は次に南米パナマを指し、この国の隘路に水路を掘って二つの太洋を結ぶ計画があると聞くが、その完成はいつごろになるのかと問い、ヨーロッパ諸国も国名をあげながら次々と示していった。最後に三郎助は、現在我々がこうして話しているのはこの地点である、と日本を示し、三浦半島の先端に指先を当てた。二人はさらに、銀板写真、火輪車(蒸気機関車)や奴隷制度、選挙制度など多岐にわたって話題にし、米側はいつしか態度を一変させていたのである。


 当時鎖国をしていた日本ですが、日本人は頭の中までは鎖国していなかったことがわかります。三郎助はアメリカとの交渉において、しっかりした理屈を組み立て相手を説得しているので、アメリカ側もこれを尊重せざるを得ません。また、あふれる好奇心や知識はアメリカ側の驚きをさそいます。こうした日本の<実力>が、我が国が植民地となることなく、自力で<明治維新>という変革をなしとげた根拠になったと思われます。

海舟の断食 


 その後三郎助は、1854年(嘉永7)に完成した日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」の製造掛の中心として活躍し、完成後はその副将に任命されています。また、1855年(安政2)には、江戸幕府が新設した長崎海軍伝習所に第一期生として入所し、勝海舟と出会います。1859年(安政6)には、遣米使節に随行する「咸臨丸」の修理を行いますが、遣米使節には選ばれませんでした。翌年1月16日、咸臨丸は神奈川(横浜)を出港し浦賀に入り、蒸気機関の最終点検や浸水の有無を調べたりします。咸臨丸の艦長は勝海舟ですが、このとき風邪をひいて最悪の体調です。以下海舟と三郎助の会話です。

  「食えば吐くし、食わねば体が保(も)たぬし。これが外洋に出れば、船酔いでどうなることやら。あんた、代ってくれんか」
  「ご冗談を・・・。どうです、断食でもしてみたら」
  「断食?」
  「船が出るまで食を断って、腹の中をきれいにするのですよ。そして、願をかける」
  「・・・ふむ。それもよかろう」
 断食と願かけの場は、西叶神社がよいだろうと三郎助は言った。かつて文覚上人が、源氏の再興を祈願した社と伝えられているからである。だが彼はすぐ思い直し、対岸に向かい合って立つ東叶神社にすべきだと訂正した。これから勝の向かうアメリカが、東方に位置するからであった。


 有名な勝海舟の断食のエピソードです。この後、浦賀の神社にまつわるエピソードが続きます。

常福寺


 将軍家茂が上洛する1863年(文久3)の前の年、上洛は陸路でなく水路で行う予定となっていました。三郎助も艦船蟠竜丸の航海長格として乗り込む予定でした。水路での上洛は勝海舟のアイデアです。次のエピソードは、三郎助と海舟のつながりを示してます。

 昔ながらの陸路に拘る老中たちに、勝は精力的に説得を続け、ようやく実現に漕ぎつけたのだという。蒸気艦の安全性、迅速性もさることながら、朝廷や諸藩、ひいては外国公使への示威行動として、この際、幕府艦隊の威容を示すことの意義を説いたのである。
 「幕府海軍のいわばお披露目。世間をあっと言わせるのさ」
 勝は得意気に鉤鼻をふくらませた。その夜勝は西浦賀の常福寺に泊り、翌日は思い出の東叶神社に三郎助ともども参拝して、多額の寄進をした。


 ただしこのときは、結局陸路になってしまいました。

東福寺


 1864年(文久4)、フランスから公使としてレオン・ロッシュが着任し、幕府では造船所の建設に熱心だった小栗上野介忠順が勘定奉行に再任されます。幕府ではフランスの協力を得て、横須賀に西洋式の大造船所建設が決まります。関係者の見分があり、その後一行が浦賀に立ち寄ります。次のエピソードは、三郎助と小栗のつかがりを示しています。

 十一月半ばの夕刻、順動丸が浦賀港に姿を見せた。西浦賀東福寺の書院に落ちついた一行の顔ぶれは小栗、目付栗本瀬兵衛、陸軍御用取扱浅野伊賀守、それに伝習所の学友で木下と名を改めた軍艦奉行並伊沢謹吾の顔もある。
 「勘定奉行様には釈迦に説法でございましょうが、莫大な出費、如何なされるのかと」
 「そちならどうする」
 小栗は、問答を楽しむように頬を和らげた。
 三郎助は、鳳凰丸建造の際、当時の勘定奉行であった川路聖謨と、場所も同じこの書院で交わした会話を再現してみせた。
 「わっははは」
 小柄な体に似ず、豪快な笑いが部屋の空気を震わせた。
 「川路様はそう申されたのか。では、わしも同じことを申そう。幕府に金はない。だが、なんとかなる。わっははは」


満願寺


 後継ぎの息子が十六歳を迎えると、親は致仕するのが浦賀奉行所与力の慣わしでした。三郎助は年明けとともに心を定め、現役与力としての記念に好きな俳諧の道の大先達、芭蕉の句碑を建立することを思い立ちます。写真は、万願寺にある石碑です。

 彼は句友を語らい、三月、尊崇する三浦大介ゆかりの寺院、横須賀村岩戸の満願寺、観音堂の下に四尺五寸ほどの卵形をした自然石を据えた。 
  「まづたのむ 椎の木もあり夏木立 芭蕉」 
 三郎助は声を出して碑文を読んだ。刻まれた句は、幾度も書き直した末にようやく満足のいった自分の筆によるものである。彼は眼を和ませ。句碑をおおう椎の木立を眺めた。春の陽が木の間越しに柔らかい陰影を碑に落し、傍らの大島桜が花片を乾いた足元に一片二片と散らしていた。


最後の戦い


 三郎助の物語は、蝦夷地箱館が最終章となります。戊辰戦争の時、榎本武揚は海軍副総裁として幕府海軍を率いていました。そして江戸城が無血開城して以降、榎本は艦隊を率いて新政府軍と対峙、最期は北海道の箱館へと向かいます。三郎助はこのとき、榎本と行動をともにします。榎本軍は五稜郭を占拠しますが、やがて劣勢となります。

 榎本艦隊が全滅したとき三郎助は箱館陣屋で戦っていました。この陣屋を固めるのは30人あまりの浦賀隊です。五稜郭の榎本から使者が来て、150名ほどの援軍を送るといってきます。しかし三郎助はあくまで浦賀隊で戦い、一同うち揃って死に場所とするといってこれを辞退します。明治2年5月14日、浦賀隊は最後の力を振り絞って官軍とまみえます。その夜、榎本軍副総裁の松平太郎が榎本の使者として降伏を勧めにやってきます。三郎助は浦賀隊の隊員たちが聞いている前で、松平に語ります。

 「これから申すことを釜さんに伝えるかどうかは、貴殿にまかせる。拙者自身、今の今まで思ってもみなかったことだ」思い詰めたその様子に、隊員たちも身をのり出して耳を傾けた。


 その内容は、将軍慶喜の助命や徳川家存続と引替えに江戸城無血引き渡しを願った勝海舟が、抗戦派の処置に困り、榎本が脱走するよう仕向けたのではないか、つまり、蝦夷移住の目的は榎本の言うような新天地開拓などではなく、抗戦派の幕臣たちを島流しにすることにあったのではないか、という驚くべきものでした。

 軍艦引き渡しを拒み続け、一時は房総館山の沖に姿をくらました榎本艦隊の動向には、官軍も神経をとがらせ監視を強めていた筈である。ところが品川脱走時、横浜に碇泊していた官軍艦隊は無警戒で、易々と大艦隊の逃亡を許している。今にして思えば不自然きわまることで、おそらく江戸を戦の場とはすべきでないと説く勝の意向を受けた官軍首脳、総参謀の西郷吉之助あたりが、見逃すよう指示を与えていたと思われる。
 「あくまで推測だが、こう考えてゆくと辻褄が合う」三郎助は、確信ありげに口を引結んだ。
 「笑止なことを」あくまで否定しつつも、松平の視線は落着きを失っている。


 松平が本隊に戻った後、この三郎助の話を聞いていた隊員たちはいきり立ちます。三郎助の考えは筋が通っている。討ち死にする覚悟でいたが、こんな話を聞いたからには、勝を成敗せずには死んでも死に切れない、と。

 「なにを今更。未練なことを申すではない。遺書を書き、覚悟を定めた筈ではなかったのか」三郎助も声を荒げる。
 「しかし企みと知った以上は、犬死などしとうはございません」
 「そのとおりです。むざむざ死んでいった者への供養のためにも江戸へ戻って勝を叩き斬らねば気が済みませぬ」隊員たちは口々に言い、三郎助に迫った。腕を組み目を閉じて、三郎助は皆の熱い視線のなかでしばし沈黙した。が、やがてゆっくりと目を開いた。
 「あい分かった。正直申して、わしも死ぬ気が失せたわ。よし、皆で駿河へ戻ろうぞ。そして勝の命を貰い受けるのじゃ」


 三郎助、最後の大芝居でした。降伏する気など全くない若者たちを戦線から離脱させるため、一芝居打ったのです。

 三々五々、脱出のために箱館港へ向かう若者たちを見送り、最後に残った二人の息子との会話です。

 「先ほどの話は、皆を逃すための偽りでございましたな」
 三郎助は手をとめ、黙って息子たちを見た。
 「そうでございますな」恒太郎の言葉に、三郎助はようやく頷いた。
 「ああでも申さねば・・・」三郎助はどかっと椅子に腰を下ろし、息子たちは顔を見合わせながら大きく息をついた。
 「父上もお人が悪い。まんまと騙されました」息子たちの顔は、怒りと笑いが入り混じってなんとも形容しがたい表情である。
 「勝さんや荒井さんには申し訳ないことだが、二十人からの命と引換えじゃ。きっと許してくれよう。分かったら、ゆけ」


 勝が聞いたら手を叩いて喜びそうな話です。しかし息子たちは、一向に立ち去る様子を見せません。腰の短銃を抜き二人に向けて「これでもか」と言っても、返ってきた答えは「・・・ゆきませぬ」でした。22歳と19歳の若者は、最後まで父と行動し、三人官軍の攻撃の中で命を落としてゆきました。五稜郭開城の二日前、1869年(明治2)5月16日のことでした。