「外蕃通略」吉田松陰著(吉田松陰全集第10巻)


 松陰が下田で海外渡航の企てに失敗したあと、野山獄で綴った「幽囚録」に寄せた佐久間象山の文があります。

われわれ同士(松陰のこと)の意見は、現在の日本や後世のすべての者の意見と照らし合わせても妥当する。どうして深く心中に止めておくに不足があろうか。今この『幽囚録』を見ると、ところどころ怒りや恨みの言葉があるのが目につく。少壮気鋭のあまり、こうなったのであろうが、少し反省する必要があるようだ。(奈良本辰也「吉田松陰著作選」講談社学術)


 このように感情むき出しといった文章も多い松陰ですが、この「外蕃通略」は、幕臣の近藤守重という人が幕府の外交文書を編集した「外蕃通書」(1818年文政元年)という本の内容を抜粋してこれに評を加えたもので、とても論理的だと思います。「謹んで案ずるに」という書き出しで始まる文章が、松陰のコメントということになります。

 慶長十二年正月、朝鮮国主が初めて征夷府(徳川幕府)に友好の奉書を送ってきます。将軍秀忠はこれに対し復書を与えます。奉書には「朝鮮國王李某、書を日本國王殿下に奉る」とあります。これに対し秀忠が与えた賜書には「日本國源某、朝鮮國王殿下に奉復す」とあります。これに関する松陰のコメントは「謹んで案ずるに」で始まる次の文です。

謹んで案ずるに、朝鮮、征夷府を稱して日本國王と爲せども、國王は、天朝の命ずる所に非ず。・・・朝鮮は原(も)と 天朝に服屬す。今徳川氏と敵國の禮を用ふるは、蓋し上に 天朝あるを以てのみ。然るに徒(た)だ日本國王と稱するは、則ち其の義著(あきらか)ならず。往復とも若し明かに征夷府の官位を掲げなば、則ち名正しくして義著ならん。


 朝鮮は徳川幕府を日本国王と呼んでいるが、朝廷は将軍秀忠を国王に命じているわけではない。朝鮮はもとは日本の朝廷に服属していた。その朝鮮が徳川氏と「敵國の禮」(対等の国同士が行う対等の礼)を用いるのは、徳川氏の上には朝廷があるからである。(すなわち朝鮮は日本の朝廷より低い地位にあり、日本における将軍家と対等である、ということか。)だから「日本國王」という名称はふさわしくない。将軍職として奉書を受け賜書を返すなら正しい使い方だろう、といった意味になるでしょうか。

 ここで松陰が問題にしているのは、国家を対外的な側面でとらえたときに、我が国を代表する元首は誰なのか、ということです。松陰はもちろんそれは天皇だという主張ですが、元首は誰かを考えるにあたっては、松陰の言うように、国家対国家という関係性においてこの問題を考える視点が極めて重要となります。なぜなら国家は、他の国家との関係に入ったときに国家として立ち現れるものだと言えるからです。

 つまり鎖国時代のように日本が孤立していて他の国家との緊張関係のない状態であれば、国内で朝廷と幕府のどちらが上位かという線引きが不明確であってもそれが国家の運営にとって大きな問題になることはありませんが、ペリーが来航し武力をもってしてでも開港を求めるような時代になると、国際関係においては、国を代表する者が誰なのか明確にすることが必要となります。外国に侵略されないために統一国家として元首を明確にし、対外的に主権を主張することが必要だからです。松陰は外交文書をたよりにこの問題の決着に向け論を組み立てています。

 寛永元年(1624年)八月、朝鮮國主が将軍職を継いだ家光を祝う書を徳川幕府に送り、これに家光が書を返します。

謹んで案ずるに、賜書に云ふ、「余幸に日域を統領す」と。是れ外國をして、天朝あるを知らしめざるなり。宜しく改めて「詔ありて先職を襲ぐ」と稱すべし、乃ち可なり。朝鮮は明・清に敬事するものにも非ざるに、動(やや)もすれば 天朝と稱して以って誇揚に資せり。今、征夷府の忠を 天朝に竭す、豈に朝鮮の明・清に於けるに比すべきならんや。而も外國に示すに敢えて 天朝と稱せざるに至りては、特に不可解と爲す。


 朝鮮國主への賜書に自分が将軍になったとあるが、これでは日本には天朝があることが外国には伝わらないではないか。天皇の詔勅により将軍職を継いだと言うべきだ。そもそも朝鮮は、明や清を天朝と呼びおおげさに賞賛している。徳川家は天皇に忠誠をつくすこと、朝鮮と明・清の関係と同じようにするべきではないか。日本も天皇を元首として外国に示すべきだ、ということをここで松陰は言っています。

 ここには、天皇が元首であり将軍職は天皇から与えられる職であることを対外的に明確にしなければならない、という松陰の危機感が現れています。尊皇か攘夷かといった問題の立て方でなく、国体を明確にせずには今我が国が直面している危機は解決しない、という優れた問題意識がここにあります。

 また、外交面で天皇がないがしろにされ将軍があたかも日本の国王として朝鮮と対等であるかのような位置づけにあることは、朝鮮を基準に明・清と日本を比較したときに日本は明・清より一段低い国の位置づけになってしまうことを意味します。天朝(明=清)>国王(朝鮮=日本)ということです。ですから、将軍より上位の天皇を元首として国際社会に自己を打ち立て、天朝(明=清=日本)>国王(朝鮮)という関係性を構築すべきである、ということが松陰の考えだと思われます。

 その行動が評価される松陰ですが、こうした松陰の思想はもっと評価されるべきだと考えます。

 その後も朝鮮は将軍がかわる度にお祝いの使者を送ってきます。

而して其の來りて徳川氏の爲めに襲職を賀するも、而も未だ嘗て 天朝の爲めに登極を賀せず。且つ徳川氏亦未だ是れを以て 天朝に請ひて勅旨を奉ぜず。人臣外交の罪 徳川氏是れ何を以て之れに辭あらんや。


 朝鮮は徳川氏のために将軍のお祝いをするが、天皇の即位についてはお祝いをすることが一度もない。徳川氏も将軍職を継ぐにあたって天皇の勅旨を求めることがない。松陰はこれを家来のくせに外交をしている「人臣外交の罪」と断罪しています。

 大政奉還と王政復古により天皇親政が開始されたのは、松陰がこの外蕃通略を著した安政4年(1857年)から10年後の慶応3年(1867年)です。松陰の考えたとおり、我が国は天皇を元首とする統一国家として生まれ変わります。幕末の動乱は、天皇と将軍のヘゲモニー争いであり、これを思想的に制したのは松陰の天朝論であった、という見方もできるのではないでしょうか。

引 用

山口県教育委員会編纂「吉田松陰全集」第10巻(大和書房)

参考文献

桐原健真著「吉田松陰―「日本を発見した思想家」(ちくま新書)