「氷川清話」 勝 海舟/江藤淳・松浦玲編(講談社学術文庫)
 「勝海舟 維新前夜の群像3」 松浦 玲著(中公新書)


海舟の談話について、私はかねてから個々の事実だけでなく、その全体としての信憑性について、かなり深刻な疑惑をもっていた。しかし、その放談で述べてられている過去の事柄が、その実際に起こったときの状況を正確に表しているかどうかという点では、私は否定的である。(「勝海舟」)


 これは、氷川清話の編者でもある松浦玲の文章ですが、氷川清話もまたここで言われている海舟の談話の一つでしょう。確かに氷川清話は、「崇拝者どもを相手に気持ちよく適当に法螺をまじえながらしゃべっている衒気にみちた思い出話」という表現がぴったりです。そして、だいぶ「法螺」もまじってるだろうなあ、と思わせながらどこか憎めない大きさが海舟にはあります。「複雑な政局の中で海舟ひとりが颯爽としている」。氷川清話の魅力はここにあると言えるでしょう。例えばこんな話が出てきます。慶応4年4月、江戸に入城した官兵に半蔵門外で狙撃されたときのことです。

幸に体には中(あた)らないで、頭の上を通り過ぎたけれど、その響きに馬が驚いて、後足で立ち上つたものだから、おれはたまらず、仰向様に落馬して、路上の石に後脳を強く打たれたので、一時気絶した。けれどもしばらくすると自然に生き返つて、あたりを見廻したら、誰も人は居らず馬は平気で路ばたの草を食つて居た。官兵はおれが落馬して気絶したのを見て、銃丸が中つたものと心得て立ち去つたのであらう。いや、あの時は実に危いことであったよ。(「氷川清話」)


 こんなふうに命を狙われたときの話がたくさんでてきます。確かに、多くの維新の志士や幕臣たちがたくさん殺される中、海舟だけはよく命を落とすことなく77歳まで生き延びたなあと感心します。この話もちょっと脚色もあるんだろうなあという感じと、剣と禅の修行で養った「勇気と胆力」のおかげで「万死の境を出入して、ついに一生を全うした」のか、凄いなあ!という感動がないまぜになって、異様な面白さを醸し出しています。こんな話ものっています。

 木戸松菊、これは木戸孝允のことですが、蛤御門の変のあと会津藩士に捕らえられた松菊は、大便を催したからと厠(=便所)に行かせてもらいます。

ところが松菊は厠の前まで来ると、地べたに踞蹲(つくば)つて袴を脱ぐやうな風をして居たが、いきなり脱兎の勢でその場を逐電した。あまり意外な事だから、衛卒もしばらく茫然として居た間に、松菊は早くも対州の藩邸に逃げ込んで、一旦その踪跡をくらまし、しばらくしてまた或る他の屋敷へ潜伏して、たうとう逃げおほせたといふことだ。(「氷川清話」)


 どこか活劇を見ているようなワクワク感があります。事実の描写というより海舟の講談を聞いているような感覚を覚えます。事実を自分の思考と嗜好の枠組みで組み立て直し、その結果をあたかも真実のようにして語る一流の話し手であるように思えます。

 こうした語り口で海舟は日本の未来についても語ります。慶応2年(1866)5月、海舟は幕府から、第二次長州征伐にあたり薩摩との調整をするよう大阪行きを命じられます。長州では藩論が倒幕で固まる一方、幕府の味方であるはずの薩摩は長州征伐の兵を出さずにいて、会津との中は険悪になっている、といった状況であったため、薩摩に出兵を促し会津と薩摩が仲直りするよう、幕府が海舟に対し助けを求めた、ということです。

 海舟が大阪に向け江戸をたつ1日前、小栗は幕府の下に郡県制度を立てようと考えていること、そのために長州など邪魔になる藩をつぶすこと、このプランはフランスの駐日公使ロッシュが支援していること、そしてこのことは慶喜と少数の閣老だけが知っていることをひそかに海舟に話します。

おれもここで争うても益がないと思ったから、たださうかといつておいて、大阪へ着いてから、閣老板倉に見(まみ)えて、承れば斯々(かくかく)の御計画がある由だが、至極御結構の事だ。しかし天下の諸侯を廃して、徳川氏が独り存するのは、これ天下に向かって私(わたくし)を示すのではないか。閣下ら、もし左程の御英断があるなら、むしろ徳川氏まづ政権を返上して、天下に模範を示し、しかる上にて、郡県制の一統をしては、如何、といつたところが、閣老は愕り(びっくり)したヨ。(「氷川清話」)


 長州を倒し諸侯を廃して幕府の下に郡県制を立てる考えの小栗とは違い、海舟は幕府と諸藩が対等な立場で国の政治にあたる新しい国づくりを考えています。ですから、小栗が郡県制という秘策を考えていることを海舟に伝えても、海舟は自分の考えを変えることはありません。そればかりではなく、大阪で老中板倉勝静と面会した海舟は、そんな考えは徹底的に駄目だ、ますは政権を返上しろ、と老中に向かって迫るのです。

 海舟は幕府の下に諸藩を置こうとする考え方を「私」といって批判します。なぜならそれは、徳川の延命しか考えていないからです。これに対し海舟は、「私」を投げ出し諸藩と対等になることによって「公」の立場に立つべきだと考えます。ここに、海舟の大政奉還論の意味があります。「公」とは、幕府と諸藩の「公儀」による新しい統一国家ということです。「公」のために大政を奉還するのだ、というのが海舟の立場です。

真に日本のことを考えるなら、まず、徳川氏がみずから倒れ、みずから領地を削って、国政を担当する能力のあるものが政権を担当するように力をつくすべきである。薩長を憎み、これを倒すなどとはとんでもないことである。(「勝海舟」)


 この論法で行くと大政奉還により「私」を捨てた幕府に対して兵を向けてくる薩長は、官軍の名前を持っていようと「私」だ、ということになります。

薩長はなぜ「大私」なのか。その「私」を捨てている徳川を攻めるからである。・・・この「公」「私」の論は彼が十数年間鍛えぬいてきたものだけに、きわめて強固な信念となっている。彼は、この論法で、これから、西郷との会談をピークとする幕府瓦解始末をのりきろうとするのである。その論理が正当かどうかはここでは問うまい。ひとは状況に従って自分の真価をもっともよく発揮できる生きかたを確立する権利をもっている。(「勝海舟」)


 海舟はこの論理を手にして、徳川家への攻撃の回避と、徳川家の存続のために働きます。その姿は、幕府からみれば薩長の手先と見え、倒幕派からみれば邪魔者に見えたかもしれません。しかし、海舟は、徳川も攘夷派もともに生かすことのできる微かな道を探っていたように思えます。大政奉還論は海舟にとって、相反する勢力を統一させるための攻撃的な戦略であったのかもしれません。

 大政奉還論が海舟にとってその戦略だったとすると、戦術にあたるのが、海軍の拡充による国論の統一です。そのために海舟は、攘夷派の先鋒であった公家の姉小路公知(あねがこうじきんとも)を自分の汽船に乗せたりして海軍の必要性を吹き込んでいます。姉小路のときは、なんと激派志士たちが120余人も付き従っていたそうです。海軍をあまねくアピールするための一大イベントとして、将軍の海路による上洛を海舟は考えていたのです。

文久三年の十二月に十四代将軍が上洛せられる時は、幕府では例の通り陸路東海道を御通過になるといふ予定であったけれども、おれは『日本は海国であるから、国防のためには海軍を起こさねばならぬ。しかして海軍を起こすには将軍などが率先してこれを奨励してくださらなくてはいけない。それゆゑこの度の御上洛も、諸藩の軍艦を従へて、海路より御出発あるがよろしかろう』と、老中などに建議した。(「氷川清話」)


 その結果かねてからの海舟の願いであった将軍の海路による上洛が実現します。その時の「幕府諸藩聯合艦隊」は次のとおりです。海舟の得意げな表情が目に浮かぶようです。

幕府   翔鶴丸、朝陽丸、千秋艦、第一長崎丸、播龍丸
越前   黒龍丸     薩摩  安行丸     佐賀  観光丸(幕府より借船)
加州   発起丸     南部  広運丸     筑前  大鵬丸     雲州  八雲丸

乗組員はみな、「私共は船のことはまことに未熟であるから、万事指示を頼む」といふから、『よしよしおれが引受けた、心配するには及ばない』といつて、おれの部下から堪能の者を三人ほどづつ各藩の船に乗り込ましたところが、彼らも大いに喜んだよ。その上彼らは藩から相当な手当をもらつて居る上に、幕府からも幕船同様に給料を与へたから、ちやうど二重に給料をもらふ都合で、ますます喜んだヨ。将軍が多数の軍艦を率ゐて上洛するというふことは、前古未曾有の事で、実に壮観であったヨ。(「氷川清話」)


 幕府からも給料を出すなど、これは海舟の策だと思われますが、海舟は11艘の船艦を従え旗艦翔鶴丸に乗り込み指揮をとります。文久3年(1863)12月28日。大阪に向かう海舟にとって、この日は人生最良の日ではなかったでしょうか。

折悪しく海上は荒れ気味で、途中、供をしている閣僚の中からも陸路に変更しようかとの声が強く出たが、将軍は、海上のことは軍艦奉行がいる、自分も海上ではその意見に従うのだから他からも異議を唱えるな、と一喝した。海舟が日記に感激して書いているところである。けだし、幕臣としての勝海舟の、もっとも得意の瞬間であったろう。(「勝海舟」)


 その約4年後、明治元年(1868)正月、海舟は陸軍総裁となり、幕閣の最高幹部となります。そしてあの有名な西郷との会談による江戸入城があり、幕末の海舟の仕事は終わります。この時海舟46歳。

海舟は、この運命に徹底的につきあった。つきあえばつきあうほど、歴史は、彼の肩により大きな荷物を背負わせてきた。彼が幕臣であったということは、その負担をさらに重く複雑なものにしている。しかし、彼はそれに耐えた。その運命とのつきあいの極限に、江戸開城のドラマはえがかれた。そのとき海舟は倒されるべき旧い国家そのものを背負わされ、その倒しかたをまかされていたのである。幕府倒壊の明治元年(1868)、彼は四十六歳、彼の人生は、この十六年間の歴史とのつきあいの中にあった。(「勝海舟」)


 江戸城総攻撃にあたって、市街地を焼きながら攻めてくるという官軍に対し、海舟は自らの手で江戸を焦土とする作戦を考えていました。そのために「破落戸(ならずもの)の糾合」すなわち、「任侠の親方や火消の頭など」に協力を依頼し、また、「房総に船を集めて、火がみえたらすぐに江戸川に入れ片端から難民を救うようにとの手配もした」そうです。恐るべし海舟。