幕末維新の横須賀

 幕末にペリーの来航を受けた横須賀は、我が国の改革の起点としての役割を引き受けていきます。幕末から維新にかけてこの国を変えていった人たちがここに集まり議論をし、浦賀からアメリカへ船が渡り、横須賀港には製鉄所がつくられ近代を牽引していきます。日本の近代は、ここ横須賀からスタートしました。


吉田松陰

松陰と象山が泊まった旅館跡

 浦賀駅から左方向に浦賀湾沿いに歩いていくと、約15分程度で、徳田屋跡に着きます。ここは江戸時代から明治・大正期まで続いた浦賀を代表する旅館です。嘉永6年(1853)、萩を出発し四国・関西を回り、5月に江戸に着いた松陰は、鎌倉に伯父の竹院を訪ねたり、木挽町の佐久間象山にあいさつに行ったりしています。
 6月4日、「黒船来航」を知った松陰は、先に出かけた象山を追って浦賀へ向かいます。このときの名台詞が「心甚だ急ぎ飛ぶが如し、飛ぶが如し」です。5日夜、浦賀に着いた松陰は、6日から10日間滞在し、久里浜に上陸したペリーが大統領親書を幕府に渡すさまを見物したそうです。その間に、この徳田屋旅館で象山と会っています。
 このあと我が国は、明治維新を通じて近代日本を形成していきます。松下村塾の塾生の多くが維新とともに生きそして死んでいきますが、黒船ー松陰ー維新と続く激動は、この浦賀から始まったと言えるでしょう。

参考文献:吉田 松陰「外蕃通略」(吉田松陰全集10巻)
参考文献:津本 陽著「吉田松陰 異端のリーダー」(角川ONEテーマ21)
参考文献:田中 彰著「吉田松陰 変転する人物像」(中公新書)



勝 海舟

断食中の海舟が使った井戸

 吉田松陰が、ペリー艦隊への密航未遂の罪で萩の野山獄に入っていた安政2年(1855)、勝海舟は下田取締掛手付という役職についています。この職は蘭書を翻訳するという仕事だったそうですが、このあと、伊勢・大坂方面の海岸の検分をしているように、実際には海上防衛の現状を把握し、対策を考えるといった仕事のようです。その帰り海舟は浦賀にも立ち寄り、海防計画の練り直しをしているそうです。
 海舟はその後、万延元年(1860)1月、咸臨丸に乗ってアメリカへ向かいますが、その前に太平洋横断航海が無事にできるように加護を祈念するため、この浦賀の地において断食をしています。この場所が浦賀湾沿いにある東叶神社で、松陰が泊まったという徳田屋旅館のすぐそばにあります。この神社の祭神の原初の八幡神は、もともと海神で航海・渡航の守護神だそうです。
 帰国した咸臨丸は浦賀に着きますが、ここで海舟は井伊大老が桜田門外で殺害されたことを知ります。幕末の動乱はさらに激しさを増しますが、こうした時代こそ勝海舟のような型破りな人間の出番なのでしょう。それにしても浦賀の地が幕末において果たした役割の大きさを改めて感じます。

参考文献:勝 海舟/江藤淳・松浦玲編「氷川清話」(講談社学術文庫)
参考文献:松浦 玲著「勝海舟 維新前夜の群像3」(中公新書)
参考文献:江藤 淳著「海舟余波」(文藝春秋)


小栗忠順

ヴェルニー公園にある小栗像

 万延元年、日米修好通商条約批准書交換のために派遣された使節団は米国軍艦ポウタハン号に乗船し、アメリカへ向います。この使節団の目付に抜擢されたのが小栗忠順です。サンフランシスコからパナマを通過して到着したワシントンで忠順は海軍造船所を訪れます。ここで見たレンガ造りの鉄工場、スチームハンマー、そして原動力としての蒸気機関が、その後、忠順が横須賀製鉄所を生み出す原動力となりまた。
 しかし、忠順は自分が構想した製鉄所の完成を見ることなくこの世を去ります。新政府軍との徹底抗戦を主張した忠順は、将軍慶喜に罷免され、帰農した知行地の上州権田村で新政府軍によって斬首されたからです。慶応4年(1868)閏4月のことでした。奇しくもこの年のこの月、新政府が横須賀製鉄所を接収しました。たとえ幕府がつぶれても、横須賀製鉄所は「土蔵付きの売家」として日本に残る、と言った小栗の矜持が聞こえてきそうです。
 明治4年(1871)に完成したドライドック(船を修理する施設)は約150年たった現在でも使われており、さらに富岡製糸場の設計など、ここで培われた技術や文化は日本全国へ伝わって行きました。

参考文献:童門冬二著「小説小栗上野介日本の近代化を仕掛けた男」(集英社文庫)
参考文献:木村直巳著「天涯の武士小栗上野介」(リイド社SPコミックス)
参考文献:村上泰賢著「小栗上野介 忘れられた悲劇の幕臣」(平凡社新書)
参考文献:星 亮一著「最後の幕臣 小栗上野介 」 (ちくま文庫)



ティボディエ邸に展示されていた、小栗がアメリカから持ち帰ったネジです。


小栗が実際に触っていたと思うと、身が震える思いです。


大河ドラマ「青天を衝け」に登場したネジです、と書いてあります。

中島三郎助

満願寺にある三郎助による芭蕉句碑

 岩戸の交差点に細く下る道があります。しばらく行くとそこに満願寺があり、境内に句碑が立っています。「まつたのむ 椎の木もあり 夏木立」これは芭蕉の句ですが、筆は中島三郎助によるものです。三郎助は浦賀奉行所与力として父とともに活躍しますが、俳句も得意であり、木鶏という俳号も持っていました。また、千葉周作から剣術を学んでおり、文武に秀でた人物として知られています。
 三郎助は、ペリーが浦賀に来航した際、自分を副奉行といつわり交渉をしたことで有名です。その後もわが国最初の洋式軍艦鳳凰丸を作ったり、長崎の海軍伝習所の伝習生になったりして活躍します。浦賀奉行所の与力には代々世襲して与力をつとめる者も多く、三郎助もその一人です。
 しかし、明治維新後、新政府に対抗して榎本武揚とともに箱館戦争に参戦し、五稜郭の戦いで、次男の恒太郎、三男の英次郎の二人の息子とのともに戦死します。三人は現在東林寺に眠っています。

参考文献:大島昌宏著「北の海鳴り」(新人物往来社)
参考文献:西川武臣著「浦賀奉行所」(有隣新書)


伊藤博文

追浜にある憲法

 国会開設の勅諭が出た明治14年(1881年)の翌年3月、伊藤博文は憲法調査の為欧州に渡り、翌明治16年8月に日本に帰ってきました。その後博文は、当時無人島であった金沢の夏島に別荘を建てています。明治憲法の草案が始まったのは明治20年に入ってからのようですが、この別荘を中心に、伊東巳代治、金子堅太郎、井上毅の四名で憲法草案にあたったということです。
 その後、大日本帝国憲法の原型である「夏島憲法」が明治21年(1888年)4月に脱稿され、枢密院での審議を経て、翌明治22年(1889年)2月11日に発布されました。
 憲法発布は、ペリー来航から約35年におよぶ混乱と激動の時代に一つの区切りをつけたと言えるでしょう。横須賀から始まった明治維新は、この横須賀において次の時代へと転換を図っていくスタートを切りました。

参考文献:瀧井一博著「伊藤博文 知の政治家」(中公新書)
参考文献:瀧井一博著「文明史の中の明治憲法 この国のかたちと西洋体験」(講談社選書メチエ)
参考文献:坂本一登著「伊藤博文と明治国家形成」(講談社学術文庫)


前島 密

浄楽寺にある前島密の墓

 芦名にある浄楽寺は和田義盛が建立した寺と伝えられていますが、ここに前島密のお墓があります。前島密は、日本の郵政行政を確立した人物で、「日本郵政の父」と呼ばれています。晩年をここ横須賀の芦名で過ごしたそうです。
 前島密は、郵便事業や郵便為替、郵便貯金などの郵政のほかにもたくさんの事業を行っています。例えば、新聞を低料で送ることができるようにして新聞事業を育成した。郵便事業に反対していた定飛脚問屋を説得し、日本通運の前身である陸運元会社を創立した。海運政策を建言し、今日の日本郵船株式会社の前身である岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社を補助させ近代海運の基礎を作った、などいろいろあります。
 これら前島の業績を見ると、ヒト・モノ・カネ・情報を移動させるシステムを作ることにより、人と人を結びつけるというネットワーカーだったようです。