三浦一族の横須賀

 1180年、源頼朝が伊豆で挙兵します。この時三浦党は伊豆に向かいますが、折からの台風の為酒匂川があふれており参戦できませんでした。さらに戻った三浦において平家に味方する秩父党との戦いである衣笠合戦に敗れてしまいます。安房へ逃げる三浦党は、石橋山の戦いで敗れた頼朝と海上で合流します。
 ここから頼朝の快進撃が始まります。安房・上総・下総を味方に付けた頼朝は鎌倉に入り、その後も西では一の谷・壇ノ浦、北では奥州で敵を滅ぼし鎌倉幕府が開かれます。この間、三浦党は常に頼朝とともに戦っています。衣笠城址から佐原の交差点へ向かって歩いていると、頼朝の政権を支え、武士の時代を懸命に生きた武将たちの息吹が聞こえてきそうな気がします。

衣笠城址にある三浦大介の祠

ここから敵を見張った物見岩

三浦大介がここで切腹したとの説もある腹切松

為継と大善寺

行基創建の古刹

 康平6年(1063年)、前九年の役の功績により三浦の地を与えられた平大夫為通は、この時より三浦の姓を名乗り、衣笠を居城としました。ここに三浦氏の歴史が始まります。大善寺は衣笠山の中にあり、奈良時代に行基が創建したと伝えられる古刹で、三浦一族の仏教信仰の中心的な役割を果たしました。お祓いをする水に困った行基が杖で岩を打つと清水がわいたとされる井戸には不動尊が祀られています。
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<大善寺本堂→不動の井>


義継と青雲寺

三代城主義継創建

 青雲寺は、三代衣笠城主の三浦義継が父為継のために創建しました。為継は後三年合戦の際右目を射抜かれた鎌倉権五郎景正の矢を景正の顔を踏まえて抜こうとしたところ、景正に「生きながら面を踏まれるのは許せない。刺し違えて死のうと思う。」を言われ、膝をかがめて顔をおさえて矢を抜き取った、という逸話で有名です。本堂裏には、三浦為通、為継、義継の三大の墓と伝える五輪塔があります。
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<青雲寺本堂→伝三浦氏三代(為通・為継・義継)の廟所>


義明と満昌寺

建久五年(1194年)創建

 衣笠城跡から佐原交差点へ向かう途中にある満昌寺は、義明追善のため頼朝により創建されました。義明は衣笠合戦で敗れた際に、安房への同行を求める息子義澄に、「今老命を武衛(頼朝)に投げうちて、子孫の勲功に募らんと欲す、・・・われひとり城郭に残留し、多軍の勢に模して(河越)重頼に見せしめん」とわずかな郎党とともに衣笠城に残り自刃します。気迫のこもった老将でした。
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<満昌寺山門→満昌寺本堂→頼朝手植えのつつじ→御霊社→義明廟所>


義澄と薬王寺

奥に義澄の墓が見える

 薬王寺は、明治9年に廃寺となり、現在は義澄の墓だけが残されています。平治の乱・鹿ケ谷の変の際には京にあり、衣笠合戦の後は安房で頼朝を先導し鎌倉へ入り、富士川の合戦でははやる頼朝を「まず東夷を平ぐるの後、関西に至るべし」と諌めます。その後も壇ノ浦では水軍を操り、奥州合戦でも活躍しています。享年74歳、頼朝の信頼を一身に集めた一生でした。駒繋ぎ石は山門があった場所とされています。
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<薬王寺跡→伝三浦義澄の五輪塔→駒繋ぎ石>


義連と満願寺

竹林のある古刹

 「寿永3年(1184)、義連が平家追討のため西国に出陣する際、自らの像を造らせ一堂を建立して安置し、軍功成って帰郷後、大伽藍を建立し満願寺と号した」と伝えられています。軍功とはもちろん、鵯越の先駆けのことでしょう。「誠のこと、三浦で朝夕狩りをするのには、これよりも険しい所でさえも落とそうとすれば落とすであろう。さあ者ども」という掛け声をかけた義連は、一門・郎等を率いて鵯越を落ちてゆき、一の谷合戦を勝利に導きます。寺伝によれば義連このとき19歳。義経に従う若武者の意気揚々とした晴れ姿です。
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<満願寺本堂→竹林→伝義連廟所→中島三郎助毫松尾芭蕉句碑>


上杉孝良著「改訂三浦一族 -その興亡の歴史- 」(三浦一族研究会)
「新横須賀市史 通史編 自然・原始・古代・中世」(横須賀市)