古代の横須賀

 今からおよそ1万8000年前の海水面はマイナス120mだったといいますから、現在海に沈んでいる三浦半島の周囲は陸地として露出したいたことになります。その後海水面は上昇し、6000年前には今より2~3m高い位置で安定します。そうすると平作川周辺は川というより海だったことになります。古久里浜湾と呼ばれるこの一帯は、狩猟や漁猟が盛んに行われていたのでしょう。貝塚や遺跡が多く発見されています。今でも吉井貝塚跡から平作川を眺めると、この一帯が海であった頃が目に浮かぶようです。

縄文時代まで

約2万年前

 三浦半島にヒトが住み始めたのは約2万年前です。海面は今より120メートルも低かったそうです。右の地図で見ると、三浦半島が横に3倍ほどもあったということになります。
 有名なナウマンゾウは、35万年前から2万年前にかけて生息していたといいますから、旧石器時代の人々は、この大きな(肩の高さが2~3M)ナウマンゾウを狩猟の対象としていたのでしょうか。ちなみにナウマンゾウは、1875年に明治政府に招聘されたドイツの地質学者ナウマンの名前に由来しています。
 横須賀市では、1867年に米海軍横須賀基地内でナウマンゾウの化石が、1929年に長井で臼歯が見つかっています。米海軍横須賀基地内で見つかったナウマンゾウの化石は、はじめて科学的に研究された化石だそうです。

写真は「よこすか大地と生命の歴史」(横須賀市自然・人文博物館)より


約1万2千年前

 このころから縄文時代が始まります。縄文時代は土器と弓矢の使用が始まった時代をいいます。約1万年前から温暖化が始まり、気候が暖かくなっているので、海面が上昇しています。
 吉井の高台には、8,000~7,500年前の貝塚があり、この貝塚を調べると、当時の人々が、貝類のほかにマダイやボラなどの魚類、イノシシ、ニホンジカ、タヌキなどを食べていたことがわかるそうです。このころの三浦半島の気候や植生、面積からして、最大で1,700人程度のヒトが住んでいたと考えられるそうです。
 約6千年前には、海面は現在より2~3メートル高い状態となっています。久里浜湾から平作川を上流にたどっていくと、久里浜駅は海の底、海岸線は衣笠駅の近くにあることになります。

写真は吉井貝塚跡にある説明版より


弥生時代

約2千年前

 約2,000年ほど前になると狩りや漁による生活から、稲を作る生活へと変化していきます。弥生時代の始まりです。右の写真は、縄文時代には吉井貝塚のあった場所ですが、この時代には竪穴式住居があった跡が多く発見されています。弥生時代後期(約1,800年前)から古墳時代前期(約1,700年前)の住居です。
 狭い大地に繰り返し竪穴式住居が建てられたため、住居跡が重なり合っています。左側の円が古い住居跡で、その後中央の半円の住居跡が一部重なって建てられ、右側の方形の住居は古い住居跡に最後に建てられた一番新しい住居と思われます。

昭和35年(1960)に発掘調査のあった吉井貝塚跡地



古墳時代

4世紀から6世紀にかけて

 現在大塚台小学校に隣接する場所に、復元した大塚山古墳があります。大塚古墳群の発見は大正13年(1924)故赤星直忠博士によりますが、この古墳は昭和27年に発掘されたもので、大塚古墳群の中で最大規模の大塚古墳1号墳と呼ばれています。
 全長31.3m、後円部の直径が18.8mで、古墳時代後期としては三浦半島最大級のものです。写真右手が方形、左手が円形で棺が納められている場所です。棺は木製で副葬品として、刀・鉄のやじり・耳環・ガラス製小玉・須恵器が出土しています。
 ここは現在住宅地となっており、小学校とグラウンドにはさまれた場所にこのような形で公園として古墳がほぼ当初の規模と形態で復元されているのは珍しいのではないでしょうか。

大塚台古墳公園説明板より引用



神話の世界

 古事記には、第12代景行天皇に東国平定を命じられたヤマトタケルが走水から房総半島へ向かうときのエピソードが書かれています。
 走水の海を船で渡った時に、ここに住む神が荒波を起こしたために、船は少しも先に進むことができません。これを見て、后のオトタチバナヒメノミコトが海に身を投げます。その結果、荒波は穏やかに凪ぎ、船は楽々と進むことができました。
 日本書紀では、ヤマトタケルの云った「こんな小さな海は飛び上がってでも渡ることができる」という言葉に怒った神が荒波を起こしたことになっています。なんだか子どもの喧嘩のようですが、古事記の面白さは、全編こんなところにあると思います。

東征に向かうタケルが軍旗を立てた御所ケ崎