石橋湛山のこと


1 はじめに


 平凡な日常生活が幸福の源泉であり、それが人生の基軸とすれば、様々に生起する、日常生活の幸福にとって余計なものである<事件>は人間にとって<余剰>と表現することができます。平穏な日常生活が人間にとって守るべき価値であるとすれば、<余剰>とは余計なものであり、できれば避けたいものです。しかし、この<余剰>は人間自身に根拠を持ち、人が生きていく中で必ず生み出されるものですから、この<余剰>をなくすことは出来ません。
 ところで、人間にとって最大の<余剰>は<戦争>ということになると思いますが、<余剰>が人間の本性によるものである以上、<戦争>もまた人類にとって避けて通れない必然性をもっています。そこで私たちに必要なのは戦争を回避する知恵であり、出来ることは戦争を回避する努力を怠らないことだと思います。

 <歴史>とは一般に<事件>の集積であり、人々の日常生活を扱ったものではありません。そうした意味では<歴史> もまた人間にとって<余剰>の記述ですから、<歴史>を<余剰>として見る視点は、人々の平穏な日常生活を守るべき<価値>と措定する一方、起った<歴史>に対して別の可能性、例えば戦争回避や戦争被害の最小化といった可能性を幻視することにより、これからの社会のあり方や私たちの生き方を考える際の拠り所になると考えます。

 こうしたモチーフで、明治から昭和にかけての<歴史>を概観してみたいと思いますが、ここで石橋湛山に登場してもらいます。湛山は明治の後期から昭和にかけて活躍したジャーナリストですが、一時期政界にも進出し、1956年(昭和31)には首相を務めます。「小日本主義」を唱え、日中戦争が始まる前から太平洋戦争にかけて「満蒙放棄論」を唱えるなど、常に戦争批判や日本の拡大路線を批判してきた人物です。この時代によくここまで発言し、しかも無事に生きてきたなと思えるのですが、その湛山が首相になったということは戦後史の奇跡のように思えます。ここで湛山に登場してもらうのは、湛山の「小日本主義」の視点で歴史を振り返るにことは、あり得たであろう<もう一つの別の歴史>を考えるにあたって、とても有効な武器になると思えるからです。湛山自身、次のように述べています。

明治維新前の我が国の状態を顧みるに、もしも当時の幕府および反幕府派の人々が、もう少し聡明であったなら、あんな馬鹿馬鹿しい動乱は起こさずとも、明治維新は出来たであろう。・・・幕府側もあの争乱のためには、受けでもよい余計な大きい打撃を蒙った。反幕府派も、あの争乱のためには、流さでも好い余計な分量の血を流した。(昭和3年4月28日号「共産主義の正体」『石橋湛山評論集』)



 ここで言われている「余計な打撃」「余計な血」というのが私が<余剰>という言葉で表したいものの内実です。湛山は歴史を学ぶ意味を、かつて人々が踏んだ「損失の多かった道を、重ねて踏まぬ用意をしよう」というところに見出しています。

 まずは、明治以降の朝鮮との関係についてみてみます。

2 朝鮮との関係

1875年(明治8) 
江華島事件
日本の軍艦がソウルに近い江華島砲台から砲撃を受け交戦。日本の戦死者1名*1
1876年(明治9) 
江華島条約(日朝修好条規)
釜山その他の開港・日本との自由貿易・日本の領事裁判権の設定・輸出入商品の関税免除などを取り決め



 このころ朝鮮では李氏朝鮮という王朝がおよそ500年続いており、幼少の王に代わり父親の大院君が実権を握っていました。この人は鎖国政策をとっており、フランス艦隊を江華島で撃退したりアメリカ商船を焼き払うなど、ちょうど日本の攘夷運動のようなことをしていました。開国の要求にしても不平等条約の締結にしても、 日本はアメリカやイギリスなどの諸外国からやられていたことを今度は朝鮮に対して行っている、というわけです。
 一方、朝鮮は清国に服属していましたから、朝鮮を狙う日本に対して、清国はこれを当然快く思いません。そこで、日本と清国の対立が続くわけですが、その対立の頂点で日清戦争が起こります。
 この日清戦争の結果下関条約が結ばれ、日本と清国は朝鮮の独立を認め、朝鮮は国名を大韓帝国と改めます。清国が属国としていた朝鮮の独立を認めるのはわかりますが、何でもない日本が朝鮮の独立を認めるというのは理屈がよくわかりませんが、このあと朝鮮に対する影響力は清国から日本に移行していきます。ここから日本による韓国支配が次のように進められることになります。

1904年(明治37)
第一次日韓協約
韓国が日本政府推薦の外交・財政顧問を採用する
1905年(明治38)
第二次日韓協約
日本が韓国の外交権を握り、韓国統監(伊藤博文)がそれを統轄する
1907年(明治40)
第三次日韓協約
司法・警察権を含む内政権を統監の下に置く
1910年(明治42)
日韓併合
韓国は日本の完全な植民地となる



 こうして江華島事件から数えると34年かけて日本は朝鮮を支配することになります。しかし朝鮮の人たちはもちろんこのことを喜んで受け入れていたわけではありません、1919年(大正8)3月1日、朝鮮独立運動(三・一運動)が以後一年以上韓国全土に展開されることになります。この三・一運動の際に湛山は次のような論を展開します。

朝鮮人も一民族である。彼らは彼らの特殊なる言語をもって居る。多年彼らの独立の歴史をもって居る。衷心から日本の属国たるを喜ぶ鮮人はおそらく一人もなかろう。故に鮮人は結局その独立を回復するまで、我が統治に対して反抗を継続するは勿論、しかも鮮人の知識の発達、自覚の増進に比例して、その反抗はいよいよ列強を加うるに相違ない(大正8年5月15日号社説「鮮人暴動に対する理解」『石橋湛山評論集』)



 この後朝鮮では抗日運動が続きますが、日本の敗戦により日本による統治の時代を終え、連合軍による統治の時代を経て南と北に分かれて独立します。この間、日本が朝鮮で行ったことの功罪はあるでしょうが、湛山の立場は一貫しています。それは軍の撤退、民族の自決とその上で交易を進めること、これです。その方が産業は発展し交易は盛んになり、結局はお互いの国にとって得なんだ、という確信が湛山の思想を支えています。過ぎた過去は変えられませんが、こうした湛山の思想を学ぶことにより、私たちは過去を振り返って思慕の念で無批判に肯定したり、あるいは逆に心情的に否定するだけでなく、過去において実現出来なかった人間の知恵を、未来において実現するという視点で歴史を見ることができると考えます。

3 中国との関係



 次に中国との関係を見てみたいと思います。

1894年(明治27)
日清戦争
朝鮮の支配権をめぐって日本と清国が争う。日本の死者は1万3千人余。*2
1895年(明治28)
下関条約
遼東半島・台湾・澎湖諸島の日本への譲渡
1904年(明治37)
日露戦争
韓国と中国東北部(旧満州)の支配をめぐり日本とロシアが争う。日本の死者は約8万4千人。*3
1905年(明治38)
ポーツマス条約
日本が関東州の租借権・南満州鉄道及び安奉鉄道の経営権・鉄道守備の軍隊駐屯権を得る



 日清・日露戦争の勝利により、日本は満州における権益を拡大していきました。さらに1914年7月ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発、日本も8月ドイツに宣戦布告します。そして11月には中国におけるドイツの拠点である山東省青島(チンタオ)を領有します。ヨーロッパで戦争をしている訳ですから、中国における欧米列強軍は手薄になっています。日本はたちまち青島を攻略しました。青島占領に関する湛山の考えはこうです。

今もしドイツを支那の山東より駆逐せよ、それだけにても日本の支那における満州割拠は、著しく目立つべきに、その上、更に青島を根拠として、山東の地に、領土的経営を行わば、その結果は果して如何。支那における我が国の侵入はいよいよ明白となりて、世界列強の視聴を聳動(しょうどう)すべきは論を待たず。(大正3年11月15号社説「青島は断じて領有すべからず」『石橋湛山評論集』)



 しかし湛山の指摘もむなしく、日本はこれ以降も拡大路線を続け、最後には太平洋戦争を起こしていきます。ドイツから奪ったのは青島のある山東半島だけではありませんでした。南洋群島、すなわちマリアナ・カロリン・マーシャル諸島など、赤道北の太平洋諸島左半分は日本が占領します。この広大な地域を手に入れたということが「太平洋を支配する」というおごりを生んだように思えます。ジャーナリズムも国民もこぞって海外の領土の拡大を歓迎し煽り立てます。この時代の日本には冷静さと抑制が欠けています。湛山がこの時代に<目立つ>のは、この冷静さと抑制を代表しているからではないでしょうか。

1914年(大正3)
21ヶ条の要求
満州の権益(旅順・大連の租借権益、満鉄・安奉鉄道の期限)をさらに99ヶ年延ばすなど中国での権益拡大を目指す
1928年(昭和3)
満州某重大事件
奉天において張作霖の乗っていた列車が爆破され殺される
1931年(昭和6)
満州事変
柳条湖で起きた鉄道爆破事件をきっかけ日中両軍が衝突
満州国建国宣言
清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)(宣統帝)を執政として建国を宣言



 ロシアの南下政策により満州の権益はロシアが握っていましたが、日露戦争後は日本がその権益を奪いました。日本はその権益をさらに拡大しようと21ヶ条の要求を行います。しかしこれは欧米列強、特にアメリカを刺激した結果欧米の介入を受け、要求は後退することになります。ある程度はお互い様というところがあるのでしょう、欧米列強も自国の利害がからまなければ、日本の動きを全て否定する訳ではないようです。しかし日本はどうもやり過ぎのようです。遼東半島をめぐる三国干渉などはその例ですが、21ヶ条の要求も同様でした。しかし、修正を受けたとはいえ関東州の租借期限は1997年まで、満鉄の営業期限は2002年までと、それぞれ83年、88年延長することが認められています。この取り決め通りになっていたとすれば、つい最近まで租借が行われていることになりますから、 何とも異様な取り決めです。

 こうして日本は満州で勢力をのばし、ついに満州国を作り上げることとなりました。湛山はこれに対して「満蒙放棄論」を唱えます。論点としては、

① 中国民族の反日感情は両国間の政治・外交・経済・貿易上の阻害要因となる。
② 満州は天然資源や過剰人口の捌け口としてはさほどの価値をもたない。
③ 植民地領有は軍事支出を増して国家財政を圧迫し、国民生活を悪化させる。
④ 列国、とくに米国との対立を生み、日本の国際的孤立化をもたらす。
⑤ 民族主義運動の高揚により、植民地の分離独立は将来不可避の運命にある。



 そして歴史は、まさに湛山の言う通り動いていきます。

1921年(大正10)
五四運動
 21ヶ条の要求に反対する対日抗議運動
第一次山東出兵
 山東半島に接近した蒋介石の北伐軍に対し在留邦人保護を目的に日本軍が出兵
1928年(昭和3)
済南事件
 山東省済南で4月に起きた日本軍と北伐軍の武力衝突。5月には1万5千の増援部隊派遣
1932年(昭和7)
盧溝橋事件をきっかけに日中戦争起こる
 中国北京郊外の盧溝橋付近で日本と中国の軍隊が衝突したことをきっかけに、戦線が中国全土に拡大。日本の戦死者44万6500人*4
第二次上海事変
 上海で日本の大山大尉が中国保安隊に射殺されたことをきっかけに両軍は交戦状態に入る
南京事件
 当時中華民国国民政府の首都だった南京を日本軍が制圧



 このように日本軍は次々と中国で事件を起こしていきます。良し悪しは別として、朝鮮支配においては、日清戦争で清を追い出し日露戦争でロシアをやっつけ、その上で日韓協約を三次にわたって締結するといったように、日韓併合に至る過程には戦略性がうかがえます。しかし日中戦争の場合には場当たり的な印象があり、そこに戦略性が見えてきません。そもそもあの広大な中国を、他の国が何とかしようとすることは初めから無理があるように思います。湛山は次のように言っています。

中国は機構が精密さを欠いており、近代国家でもないが、それだけに強さを持っている。普通の近代国家であれば、首都南京を取られ、さらに漢口を追われるなど中央政府が敗退する場合には、抗戦を継続することは困難であろう。しかし中国にはできる。(4月29日号講演「長期建設の意義と我経済の耐久力」『全集11』)



 追っても追っても敵はどこかに逃げて隠れてしまい、敵がいないと思って後退するとまたどこからか現れてくるのですから、まさに日中戦争は「泥沼」だったでしょう。軍閥を丸め込んで利用したり、敵の仕業に見せかけて戦闘のきっかけを自分たちで作るようなやり方が、いつまでも通用するはずもありません。

中国内部が分裂抗争を繰り返す時期であるならばともかく、全中国の統一が実現した現在、日本の対中国外交の伝統を変換する以外に日中衝突を回避する方法はない。(12月1日号社説「対支強硬外交とは何ぞ―危険な満蒙独立論」『全集6』)



 日本は太平洋戦争が始まってからも日中戦争を戦い続けましたが、最後には中国の全てを失うことになります。湛山が主張した徹底不干渉と民族自決の尊重の真逆をいった日本は、大きな敗北に至ることになります。

4  太平洋戦争



 第一次世界大戦において、日本は太平洋におけるドイツ帝国の植民地を占領しました。その結果、日本はこれら南洋諸島のうち赤道以北の島々(マリアナ・カロリン・マーシャル諸島)を委任統治することとなりました。一旦領土を広げると、今度はその領土を守る必要性が出てきます。湛山は言います。

ついにドイツとの開戦の不幸を見、我輩の予想の如く一億の国帑(こくど)を費やし、幾千の人命を殺傷した上に、これらの領土を維持するために、今後必ず陸海軍の拡張を行わねばならぬ、のみならず、独米の大反感を招けるは勿論、あるいは日英同盟さえ継続し得ぬ破目に陥りはせぬかを危ぶまれる。(大正4年5月5日号社説「禍根をのこす外交政策」『石橋湛山評論集』)



 日英同盟は、まるで湛山が予言したように、この社説が書かれた大正4年から7年後の大正11年に破棄されました。背景には、中国で独走する日本に対する「大反感」がありました。歴史は湛山の心配どおりに進んでいき、太平洋戦争に突入し、そして1946年に敗戦を迎えることになります。同じ社説で湛山は次のように述べていました。

ドイツから取った物や、這次(しゃじ)の対支交渉の結果で得た物の喪失だけでは、到底済まぬ。おそらく二十七、八年戦役*から積み上げて来た一切の獲得物を、元も子もなく、取り上げられるだろう。(同上)  *日清戦争のこと



 敗戦により日本は、第一次世界大戦以降に獲得した領土だけでなく、日露戦争以降支配を拡大してきた満州を失い、日清戦争で得た台湾を失い、結局初めの四島に戻ってしまいました。日本が多大な犠牲を払って獲得しようとした<余剰>は潰えてしまいました。しかし第二次大戦後、日本は満州がなくとも、民族自決のもと貿易立国として四島だけで立派に国力を高め豊かな国を作ってきました。植民地は独立し、それぞれの国が国力を高めてお互い交易を行い豊かになる、という湛山の目指した世界が現れたというわけです。「なんだ、結局 湛山のいう通りになったじゃないか。」と思わせる、このあたりに、湛山の湛山たる所以があると思います。
 「自立した国家間の自由貿易」とは当たり前の事実ですから<事件>にはなりません。つまり<余剰>の世界ではありません。 人間は日常を生きるだけでなく、どうしようもなく<余剰>の世界を生きる存在です。そして、時として、というより常に、余剰の世界は日常生活を壊してしまいます。湛山はこのことに対して常に警鐘を鳴らしてきました。人々の幸福を視座におき、政治や経済の世界におけるあるべき姿を実践として追及したのだと思います。

 太平洋戦争中の主な戦闘による死者の数は次のとおりです*5。ガ島に始まり沖縄・広島・長崎に至る大きな犠牲の果てにすべてを失う前に、どこかの地点で立ち止まることはできなかったのでしょうか。上手な終わり方がどこかにあったのではないでしょうか。この戦争の目的はなんであったのか、日本がとった戦術は適切であったのか。この数字を生み出した太平洋戦争からうかがえるのは、この当時の日本における<政治>の不在です。

 私たち人類が争いのない世界に到達するためには、まだまだ多くの試行錯誤と犠牲が必要なのかもしれません。そのためには当面、「流さでも好い余計な分量の血を」流さないことが私たちに必要な知恵なのだ、と私は思います。

1943年(昭和18)
2月 ガダルカナル島撤退 戦死8200人、餓死または病死1万1000人
5月 アッツ島玉砕 戦死2547人
11月 タラワ島玉砕 戦死4690人
1944年(昭和19)
2月 クエゼリン島玉砕 戦死3472人
7月 サイパン島 戦死約3万人、インパール撤退 死者3万500人
10月 フィリピン決戦 戦死47万6800人
11月 ペリリュー島玉砕 戦死1万650人
1945年(昭和20)
2月 硫黄島玉砕 戦死1万9900人
4月 沖縄戦 戦死10万9600人、市民の死亡10万人


      *これらの死者の中には、特攻作戦による死者4615人が含まれている。

5 その後の湛山


 戦後、吉田茂の側近だった白洲次郎が、次のような回想をしています。なぜ湛山は病気になってしまったのか、本当に悔やまれます。

ぼくの知る限り、内閣の閣僚で、毛唐に平気でものをいって一歩も退かなかったのは、吉田さんをのぞいては石橋湛山(第一次吉田内閣で大蔵大臣を務め、後に首相)一人である(白洲次郎「『占領秘話』を知りすぎた男の回想」『週刊新潮』1975年8月21日号、括弧は原)。原彬久「戦後日本を問い直す」ちくま新書



 鳩山内閣退陣後、岸信介と総裁選を戦った湛山は、僅差で岸を破ります。その時のNHKの番組で、湛山や次のような考えを述べます。もう一度、こうした発言をする首相を迎えたいものです。

日本が中共(中国)との貿易をある程度進めるということは、東洋の安定をもたらすゆえんであるし、日本のためばかりでない世界平和のために非常に必要なこと。アメリカの政策もそれにマッチするようにしてくれないと。アメリカの言うことばかり日本におしつけてくるようなことをされては困る。(NHK「日本人は何を考えてきたのか第6回大正デモクラシーと中国・朝鮮~吉野作造と石橋湛山」2012年7月8日より昭和31年12月NHK「新総裁に聞く」)

参考文献
 「石橋湛山評論集」松尾尊兊編(岩波文庫)
 「石橋湛山 リベラリストの真髄」増田弘著(中央公論新社)
 「戦う石橋湛山」半藤利一著(東洋経済新報社)
 「大系日本の歴史14二つの大戦」江口圭一著(小学館ライブラリー)
 「太平洋戦争上・下」児島襄著(中公新書)

引用
 *1 世界大百科事典 第2版
 *2 朝日新聞朝刊(2007. 7.31)
 *3 朝日新聞朝刊(2007. 8.27)
 *4 朝日新聞朝刊(2007.11.26)
 *5 半藤一利著「昭和史」(平凡社)