北一輝のこと


 北一輝は二・二六事件に連座して処刑されていますが、北が蹶起を指示したわけではなく、二・二六で蹶起した青年将校の中に北に心酔していた若者がいた、といったことのようです。確かに最後の著作である「日本改造法案大綱」において北は「憲法の一時停止による国家改造」を提案していますので、青年将校たちに影響を及ぼした面はあるのでしょう。またそのことをもって北が青年将校を動かした、とみることもできるでしょう。確かに北自身は蹶起の責任をとって従容として処刑を受け入れたようにみえます。

 しかし最初の著作である「国体論及び純正社会主義」における北の主張は、「国民は天皇の赤子である」といういわゆる「国体論」に対する徹底的な批判であり、また表題にあるように「社会主義」、しかも当時流布されていた輸入された外国の社会主義思想ではなく、自力で作り上げた「純正」社会主義の理論だと言っているのですから、青年将校たちが思い描いていた天皇親政による国家改造とは性格を異にしていたといえるでしょう。

 ここではまず、北が「民族の政治史」と呼んでいる「国体論」批判を概観してみます。北の魅力の一つはその文体にあります。それは壮大な浪漫といった感じで、他者への否定は舌鋒鋭く、自ら構築している理論には情念が論理から思わず飛び出してしまっているような魔力があります。

 こうした文体にのせて北が描く歴史の記述は、国民は常に天皇に忠孝を尽くしてきたという「国体論」に対し、実はそうではなくて我が国の歴史は常に天皇に背いてきた歴史である、ということを証明するものとなっています。この北による歴史の記述を読んでいると、歴史が生物のように生きている感じが伝わってきます。そこでは「乱臣賊子」という言葉がキーワードになっているのですが、こうした一つの視座を持って歴史をみることにより、歴史が鮮やかな一つの独特な物語となっていく様子を見ることができます。

 北の関心はおそらく当時絶対的な存在であった天皇を相対化せんとする所にあるのでしょうが、より根本的には、北がいま生きている現在を、自分が思い描く将来に向け、天皇を支点にして自分の力技で180度ひっくり返そうとしている、そんな印象を受けます。

 こうした北の方法論から学ぶべき点は、とても大きいと思います。私たちは誰でも、自分自身の関心と意志に応じて独自の視点をもって過去をみることが可能であり、未来に向けて何かを投企しようとするときは、自分なりの視点をもって過去に臨むと、その中に未来へのヒントを見出すことができる。北の描く歴史からはそうしたことを学ぶことができると思います。

1 民族の政治史


 北一輝は、明治16年(1883)に佐渡で生まれ、明治39年(1906)に「国体論及び純正社会主義」を出版します。このとき北は23歳、日本は日清・日露戦争に勝利し、韓国併合に向け着々と手を打っている時代でした。

 その後28歳で上海に渡り、32歳で辛亥革命前後の中国革命の状況を記述した「支那革命外史」を書き始め38歳のときに出版、40歳で「日本改造法案大綱」を出版。そして昭和11年(1936)53歳のとき、二・二六事件に連座し翌年死刑判決を受け銃殺されます。

 北は最初に出版した「国体論及び純正社会主義」において、当時広まっていた「国体論」を批判し、自らの国体論と政体論をこの書物において提起し、その上で独自の社会主義論を展開しています。

 ここで北が批判している「国体論」とは、「天皇は家長として民の父母なり」ということと「日本民族は皆忠孝にして万世一系の皇統を扶翼せり(助けてきた)」という内容のものです。この「国体論」を北は「妄想」であると批判し、「粉砕すべきのみ」と言い切っています。

国体論が日本歴史を解して皇室に対する乱臣賊子は二三の例外にして国民は古今を通じて忠臣義士なりしと云うと正反対に、歴史的生活以後の日本民族は皇室に対しては悉く乱臣賊子にして例外の二三のみ皇室の忠臣義士なりしとの真実を以て国体論其の者を転覆することは迷信者の最も善く覚醒すべき刺激たるを以てなり。(第十一章P309)



 「国体論」は日本の歴史を解釈して、二、三の例外はあるが国民は皇室に対して忠臣・義士であったと言うが、実は日本民族はことごとく皇室に対する乱臣賊子(主君に反逆する家来と親に背く子供)であり、例外の二、三だけが皇室の忠臣、義士であったというのが真実である、ということが言われています。この、日本民族は皇室に対する乱臣賊子であった、という視点で歴史を見るとき、「国体論」によって隠蔽されている歴史が浮かび上がってきます。

 北による「乱臣賊子」の記述は蘇我氏から始まりますが、時代をたどるためにここでは弥生時代から歴史を追ってみます。

弥生時代

 紀元前1世紀頃当時は倭と呼ばれていた日本には、100余りの小さな国がありました。やがて2〜3世紀の弥生時代後半になると小国同士の内乱があり、その結果卑弥呼を女王とする邪馬台国が30ほどの国を勢力下におく連合国家が成立します。

古墳時代

 その後4世紀になると、大王(おおきみ)を中心とする豪族連合であるヤマト政権が成立します。5世紀には讃・珍・済・興・武と呼ばれる倭の五王が中国南朝の宋という国に使いを送ったという記録があります。5番目の武王は、21代目の雄略天皇だと考えられています。ほぼ確実に実在しただろうと考えられているのは15代応神天皇ですが、この頃から天皇(当時は大王)を中心に、この国が形作られていきます。

飛鳥時代

 ヤマト政権では大王のもとで中央の豪族が朝廷を構成し、政治を行っていました。この豪族の中でも有力だったのが、蘇我氏です。蘇我稲目は自分の娘を29代欽明天皇に嫁がせます。31代から33代の用明・崇峻・推古天皇はこの娘たちの子供なので、稲目は天皇の祖父ということです。こうして蘇我氏は天皇家の外戚として権勢をふるいます。

 稲目の息子である馬子は政敵の物部守屋を滅ぼし、続いて崇峻天皇を暗殺、姪の推古天皇を即位させ、蘇我氏の血を引く聖徳太子を摂政とし、さらに権勢を拡大します。大王の権力が確立していくにつれ、権勢の拡大を狙う豪族たちの動きも活発になりました。北の「乱臣賊子」の記述はこの時代から始まります。

遂に蘇我族の強大となるや、他の諸族を圧倒し帰伏せしめて皇族と強者の権を争ふに至り、而して相降らざる迄の対抗を為すに至れり。(第十一章P310)



 ここで言われているのは、蘇我氏が皇族に対抗して権力を巡って争うまでに強大になった、ということですが、蘇我氏が自分の子供を「皇子」と呼んだり、天皇の警備を役目とする「儀仗」を従えて出かけていた、などと例をあげて蘇我氏の台頭を説明しています。そして北がこうした例を示すのは、次のようなモチーフによります。

歴史的生活の始まると共に強者の権を以て皇族の強に対抗せし第一の事例として、例外なる乱臣賊子が開巻第一章より存せしことを指示せざるべからず。(第十一章P310)



 「国体論」が主張するような二、三の例外であるはずの乱臣賊子が、歴史の最初(ここでは蘇我氏の台頭)から登場していることは、天皇の歴史がその当初から国を乱す臣下の反逆の歴史であることを示している、と北は言います。

 こうした蘇我氏の専制に対し、のちに38代天智天皇となる中大兄皇子が中臣鎌足とともに、蘇我馬子の息子である入鹿と孫の蝦夷を殺害します。中大兄皇子は蘇我氏とは血のつながりのない皇子であり、中臣鎌足は天皇家の祭祀を司る中央の豪族でした。こうして天智天皇による公地公民制を中心とする改革が始まります。大化の改新です。

 しかし天智天皇の死後、天皇の子の大友皇子と天皇の弟の大海人皇子の間に、皇位をめぐり古代史上最大の内乱である壬申の乱がおこります。乱は大海人皇子の勝利に終わりますが、このあと藤原氏(以前の中臣氏)が勢力を伸ばしていきます。藤原鎌足の息子である不比等は、娘を42代文武天皇の皇后としています。蘇我氏の専制が終わったかとおもう間もなく、今度は藤原氏が外戚となり勢力を伸ばすことになります。こうして藤原氏を軸に歴史が展開する奈良・平安時代が始まります。

奈良時代

 藤原氏は、不比等の娘を聖武天皇の皇后にたてて権力を握ります。しかし、不比等の息子の四人の兄弟が疫病で死亡したり、僧の道鏡が力を握ったして、その後政治は安定しませんでした。

平安時代

 50代桓武天皇が京都に遷都をしたあと、52代嵯峨天皇が亡くなると、藤原氏4兄弟(南家・北家・式家・京家)のうちの北家が勢いを伸ばします。北家の藤原良房は857年太政大臣に任ぜられたあと、56代清和天皇が幼少で即位すると、その外祖父として天皇にかわって事実上政治を掌握します。その後も良房は有力な氏族の勢力をしりぞけ、正式な摂政となります。

 良房の養子となった基経は、57代陽成天皇の伯父で右大臣として摂政の任にあたり、さらに太政大臣でもありましたが、甥の陽成天皇を廃して58代光孝天皇を位につけます。

 次の59代宇多天皇も基経を関白とし実権を与えます。その後も藤原氏は摂政・関白を代々続け、道長(966〜1028)頼道(992〜1074)の時代に栄華の頂点を迎えます。良房から頼道まで約200年、鎌足から数えれば約400年にわたり藤原氏が朝廷において大きな力を発揮したことになります。この藤原氏の専制に対する北の評価は次のようです。

代を重ぬるに従い天皇の血管中には神武天皇の遠き血液よりも藤原氏の血液が多量に循環するに至り、…国民たる自家の血液を以て皇室祖先の血液と代謝せしめ皇室祖先の血液の多量なるものを排斥して皇位継承権を独占したる藤原氏の連綿たる専制時代は、例外なる乱臣賊子と云はんには余りに長き数百年の例外なり。(第十一章P313)



 天皇の血管の中には、祖先である神武天皇よりも藤原氏の血の方が多く流れるようになった。皇室の血を排斥して皇位を継承独占する藤原氏の専制時代を歴史の例外とは言えないだろう。北独特の言い回しです。そしてこのあとも、<例外>の記述が続きます。

 天皇に対抗したのは豪族や貴族だけではありませんでした。平安時代後期、白河天皇は幼少の堀川天皇に位をゆずった後も上皇として政治の実権を握る院政を開始しました。その後も鳥羽・後白河と3人の上皇による院政が1世紀にわたって続きますが、この上皇たちは仏教を厚く信仰して多くの寺院も立てました。しかし、上皇の信仰を得て勢力を築いた大寺院は、朝廷に強訴を繰り返すなど、逆に院の権力をおびやかしにかかります。「言うことをきかないと地獄に落とすぞ」と威嚇して。

今日の世人は皇居の外濠に集りて万歳を唱ふるより外知らざるに、当年の彼等は塀を破り門を打ち砕きて宮殿の階前に至り、数珠を揉みて祈り、言聞かざるなれば地獄に落とすと威嚇したるに非ずや。(第十一章P313)



 また、白河上皇のとき、自らの軍事的基盤として源氏と平氏を、院の御所を警備する北面の武士や犯罪を取り締まる検非違使にとりたてましたが、このことがやがて平清盛に始まる武士の反乱を引き起こすことになります。

実に、山僧の打撃に対して皇室は余儀なく源平の二氏を近けて保護せしむるに及びて終に皇室を保元平治の膏血中に投ずるに至り、接近は油画を醜ならしむる理由によりて終に無遠慮なる清盛は後白河法皇の侮るべきを発見して露骨に之を迫害するに至りしなり。(第十一章P314)



 皇室は山僧の攻撃から身を守るためにやむを得ず源平の二氏を近づけて自分を保護させましたが、最後には保元平治の乱に身を投じることになります。保元平治の乱は朝廷内部の勢力争いですが、貴族社会の争いに武士の力が必要となったことを示しています。こうしたなか、武士で初めての太政大臣となった平清盛は、娘を高倉天皇に嫁がせ勢力を伸ばします。これに対し、平氏打倒を企てる後白河上皇を清盛が幽閉する、という事件も起きました。清盛が露骨に後白河法皇を迫害するようになったとは、このことをさしているのでしょう。

鎌倉時代

 鎌倉時代における幕府と朝廷間の最も大きな事件として承久の乱があります。これは後鳥羽上皇が京都で幕府打倒の兵を挙げた事件ですが、結局東国の御家人たちの結束の前に上皇側が敗れ、幕府は後鳥羽上皇を隠岐島、土御門上皇を土佐、順徳上皇を佐渡島に追いやりました。

義時の共犯或は従犯として三帝を鳥も通はぬ遠島に放逐せし他の十九万の下手人、尚後より進撃せんと待ちつつありし二十万の共謀者を忠臣義士の中に数ふることは国体論をして神聖ならしむる所以に非らず。(第十一章P315)



 19万人は吾妻鏡に出てくる幕府軍の人数で、援軍がさらに20万人いたかどうかわかりませんが、さすがに帝の放逐に加担するこれらの武士たちを、天皇に忠孝を尽くすもののうちに数えることはできないだろう、ということが言われています。

室町時代

 鎌倉時代末期、後醍醐天皇は二度にわたり討幕の兵を挙げました。討幕には失敗しましたが、これをきっかけに畿内の寺社勢力や北条氏に反発する御家人たちが立ち上がり、北条氏一族を滅ぼし鎌倉幕府は滅亡します。こうして後醍醐天皇による建武の新政が始まりますが、足利尊氏が新政府に反旗をひるがえし、この新政も3年で終わってしまいます。

 当時朝廷では皇位継承争いから二つの皇統が対立していました。後醍醐天皇は大覚寺統の皇統であったため、尊氏は次の天皇にもう一方の持明寺院統の光明天皇をたて、自分を征夷大将軍に任命させ幕府を開きました。また尊氏の孫の義満は、太政大臣となったり、幕府と朝廷に二分されていた京都の行政権や警察・裁判権を幕府にとりあげるなど、朝廷への支配を強めました。

足利氏に至つては更に甚だし。後醍醐の努力は単に北条氏と足利氏とを代えたるのみにして、鎌倉と京都其れ自身も奪取られたる者なりき。ああ後醍醐天皇と其の忠良なる殉死者!是れ日本歴史を通じて辛ふじて見らるる二三だけの例外にして、…(第十一章P316)



 後醍醐天皇は北条氏を滅ぼしましたが、後には足利氏が控えており、結局北条氏が足利氏に代わっただけで、武士に牛耳られることに変わりありませんでした。さらに悪いことに、足利氏には京都まで奪いとられてしまいます。これでもまだ乱臣賊子は二、三の例外と言うのか、と北は言います。

安土・桃山時代

彼が明の公使より愚弄の封冊を受くるや激怒して発したる言を見よ。曰く、「われは我が力を以て天下を取れり。王たらんと欲すれば王、帝たらんと欲すれば帝。何ぞ爾等の封を待たん」と。…即ち、秀吉も亦例外なる乱臣賊子たるべき思想を持して天下に号令したる者なるは論なし。(第十一章P318)



 秀吉が政権をとった時、明から公使が来て明帝が秀吉を国王に封ずると言ってきました。秀吉は思わず「俺は自分の力で天下を取ったのだ。王になろうと思えば王に、帝になろうと思えば帝になれる。どうしてお前なんぞにそれを認めてもらう必要があるのか」と激怒します。

 秀吉は関白・太政大臣となり、朝廷から「豊臣」の姓を与えられたり、公邸である聚楽第に行幸の後陽成天皇をむかえたりと、朝廷とは円満な関係をもっていました。しかし北に言わせるとそれは秀吉の「演劇的気質」によるものであり、この発言をみれば、秀吉もまた乱臣賊子であるということになります。

江戸時代

 江戸時代になると、幕府は朝廷への統制を厳しくしていきます。皇室の領地を禁裏御料といいますが、家康の時は1万石、その後1万石ずつ2回追加されますが、それでも3万石でした。幕府の領地は直轄で400万、旗本領400万で、合わせると800万石ですから、二桁違います。また諸藩の領地と比べても、2万石というのは最低ラインです。

 さらに1615年、家康は禁中すなわち天皇、並びに公家に対して規制を加える禁中並公家諸法度を制定します。法度の第1条には、「天皇は学問を第一とせよ」とあるように、細かな規定が17条並んでいます。

 この第16条にある規定は、朝廷から高僧に与えられる紫色の袈裟である紫衣の授与を幕府が規制する内容ですが、これをきっかけに事件が起きます。事件とは後水尾天皇が大徳寺などの僧に与えた紫衣授与の勅許を幕府が無効とし、さらにこれに反対した大徳寺の沢庵(沢庵漬けで有名なあの沢庵です) を流罪としたというものです。これは幕府の決定が朝廷の勅許に優先することを示したという意味で大きな事件でした。

「学問手習御勤行御懈怠あるべからず…三種の神器御守りは第一の事」とあるは実に皇室をして歌人たらしめ、空名に過ぎざる三種の神器を擁すれば天皇の任尽くと云う者。吾人は未だ如何なる憲法史にても主権の用を委任されたりと云う者にして主権の体に斯る法規を強制したる事実を知らず。(第十一章P319)



 ここで「主権を委任された者」とは朝廷から征夷大将軍の称号を与えられ幕府を開いた徳川将軍を指しています。その徳川将軍が「主権の主体」たる朝廷に対して幕府禁中公家諸法度を強制したという事実が述べられています。具体的には、朝廷に対して、「学問に勤めて怠るな、三種の神器を御守りしなさい」というように、皇室を歌人という枠に押し込め、三種の神器を守っていればいいというような内容です。通常「主権の主体」が上位にある者ですから、朝廷との幕府の関係は完全に主客転倒しています。

 乱臣賊子の最後に登場するのは新井白石です。

 新井白石は、徳川6代将軍家宣と7代家継父子の将軍の7年間、幕政に参加して将軍を補佐した朱子学者で、5代将軍綱吉の幕政を改革するため、生類憐みの令を廃止したり、長崎貿易を制限して金・銀の流出を防ぐなど正徳の治と呼ばれる改革を行いました。

 またその頃、朝鮮からの使者である朝鮮通信使を迎えるにあたって行う儀式を簡素に改めたり、いままで朝鮮の国書に「日本国大君」と記していたものを「日本国王」と改めさせました。白石はこれを朝鮮側に事前の相談もなく行うことにより、朝鮮に対する優位性を示します。また、国王には日本国の代表という意味がありますから、これには将軍の権威を高める狙いがありました。

彼が朝鮮公使と樽俎折衝せるを国威を発揚せしめたる功績なりとして教育者等の好で小学生徒に挙示しつつある所なりと雖も、是れ実は従来の慣例を破りて幕府自ら日本国王と号し、従来の公使の席次を下して三家の次ぎに置きしが為めに起りし紛議のみ。然るを尊王忠君と共に斯る大逆無道の乱臣賊子を鼓舞すとは誠に滑稽を極む。(第十一章P322)



 このように、白石のやったことは幕府のことを、勝手に日本を代表する国王と言い表したり、これまでの慣習を破って朝鮮の意向を無視して公使受け入れの儀式を簡素化したに過ぎない、これだけのことを何で国威を発揚したなどとほめそやすのか、つまり白石はここで朝廷よりも幕府の方が上位にあることを示したのであり、白石もまた朝廷に逆らう乱臣賊子ではないか、ということです。こうして北による乱臣賊子の政治史の記述が終わります。

ああ今日四千五百万の国民は殆ど挙りて乱臣賊子及び其の共犯者の後裔なり。吾人は日本歴史の如何なる頁を開きて之が反証たるべき事実を発見し、億兆心を一つにして克く万世一系の皇室を奉戴せりと主張し得るや。(第十一章P324)



 結論、皇室を主君として奉じてきたのは直接経済的従属関係にあった公卿だけであって、日本民族の全てはその他の家長や主君たちに従属して忠孝を尽くして皇室の乱臣賊子となっていたのである。古代・中世は血統主義と忠孝主義の歴史であるが、それは日本民族のそれぞれの家長や主君に対するものであって、そのために万世一系の皇室を助けていたとするのは全く誤りである。これが北による「国体論」批判です。

 これを要するに、古代・中世において日本民族は皇室に対し、常に忠孝を尽くしていたと「国体論」はいうが、北によればそんなことは全くなくて、皇室とその他の豪族・貴族や武士たちは対等な関係で常に抗争しており、歴史的事実からみて皇統が万世一系だなどと言うことはできない、ということです。

 確かに日本の歴史を概観すると、皇室が豪族・貴族や幕府から大事にされているといった印象はありません。北の「国体論」批判は実に小気味良く、切れ味鋭いものです。しかし一方、時の権力者は常に天皇家の外戚となるといったような形で朝廷とつながって勢力を拡大したり、自らの権力の正統性の根拠にしたりしています。また、天皇家はしっかりと脈々と血統をつないでいます。これはどういうことを意味するのでしょうか。

 北はこれを「神道のローマ法王」たる天皇と「鎌倉の神聖ローマ皇帝」としての頼朝という比喩を用いて説明します。つまり、政治的な実験を握っているのは「ローマ皇帝」たる頼朝である一方、天皇は宗教的権威として存続し続けたということです。そして天皇家もまた一人の君主として臣下をもっていたが、それは極めて弱小で、時の権力者が恐れるほどではなかったので、かえってそのまま放っておかれたということです。

 天皇家は弱小ながら、貴族階級(天皇以外の豪族・貴族から幕府まで、政治的権力を握る者を北はこう呼んでいます)と同等な君主であると同時に、わが国唯一の宗教的権威であるという二重性においてとらえています。この分析はとても見事だと思います。

 ここには明治維新において天皇が果たした役割の根拠が示されています。すなわち天皇は「神道の祭主」であることが、他の貴族階級と決定的に異なります。この「原始宗教の祭主であった天皇」の血統主義は他の貴族たちの及ばないところであり、さらに天皇家は強大な力を失っていただけにかえって権力抗争を免れることになり、日本の歴史において高尚な道徳を保持し得た、と北は考えます。

 こうして「神道の信仰よりしたる攘夷論が其の信仰の経典によりて尊王論と合体」することになります。ここには、明治維新において天皇制が前面に現れてくる姿が鮮やかに表現されていると思います。

特に其の排外的信仰なる点に於て、長き間を海洋に封鎖せられたる日本民族にとりては恰も猶太教(ユダヤ教)と等しき意味を以て国家起源論として考へられたりき。即ち我が民族のみ特別に神の子にして他は夷狄なりとは凡ての民族が近き以前までの信仰なりしがごとく、日本民族も等しく斯かる信仰の神道を幕末に至るまで脱却する能はずして尊王攘夷論となり…(第十三章P355)



 ここまでは、日本の歴史を正しく見ればそれは天皇に対する乱臣賊子の歴史だっただろう、といういわゆる「国体論」批判です。歴史の解釈の面白さをまざまざと見せつけられる思いです。「国体論」が時代を席巻する中、これだけの権力批判を堂々と行うことのできた北の<確信>は、まさに驚異といえます。