井上成美(しげよし)のこと



子曰く、君子は人の美を成す(論語)—君子は、他人の善行については、それが成就するように援助する。—

井上の名前の由来です。


はじめに


<風光明媚な荒崎海岸>三浦半島の西側、相模湾に面して荒崎海岸があります。名前の通りの荒々しい岩礁海岸で、三崎層と呼ばれる古い地層の露出した海岸です。

 この荒崎海岸を見下ろす場所に、井上成美が晩年住んでいた家があります。井上が亡くなってからしばらくは記念館として写真などが展示されていましたが、現在は誰も住んでおらずそのまま放置されています。国の宝であった人物が住んでいたのですから、市として保存できないのだろうか、とも思いますが、個人の財産ですから、きっとそうはできない制約もあるのでしょう。

 山本五十六や米内光政に比べると地味な印象のある井上ですが、山本、米内とともに海軍省トリオと呼ばれ、激動の時代を生きた人物です。一本芯の通ったその生き方は、現在の私たちに強く訴える力をもっています。

 これから再び戦争の危機を迎えるかもしれない現在、私たちは単に戦争反対と言うだけでなく、いかにしたら戦争を回避できるのか、またいかにしたら戦争の被害を最小限に食い止めることができるのか、そして戦うべきときはどんな時なのか、ということについて国民全体で考える必要があると思います。

 そこで、あの戦争の最中に海軍の中枢にあって、時代を見誤ることなく、また時代に流されることなく、自己の考えを堂々と主張し続けた井上成美人物について学ぶことは、私たちが戦争というものを考えるときの道しるべとなります。合理的・客観的に思考する井上は、戦争について常に冷静にこれを捉えており、その発言には信頼感があります。

 こうした意味で、現役時代に横須賀で活躍し、現役引退後は横須賀に住んで晩年を過ごした、井上成美について勉強してみたいと思います。


井上の軍事思想



 昭和45年10月20日、井上80歳の時に、長井の自宅で行われた座談会の記録があります。相手は海上自衛隊の初代幹部学校長と座談当時の校長の2名です。ここで井上は次のような発言をしています。

私は、なぜこんなばかな戦争をやったか、ということを反省すべきなんだと思います。この戦争は、しくじったとか何とかいう簡単な問題じゃないよ。単に作戦の失敗だけじゃないんだ。悪いことをやったという、その反省の意味から、あなたの学校の高級の学生にテーマを与えて、なぜこうなったかということをみんなで調査して、みんなで寄り集まってデスカッションをやったらどうか。



 ここで井上は太平洋戦争を「ばかな戦争」と呼び、「反省すべき」と言っています。戦争中は戦意を煽りながら、戦後になると実は戦争には反対だった、というようなことを言う人物もたくさんいたようなので、もしかしたら井上もそうした人の一人ではないかと思われるかもしれませんが、井上の主張は戦争中から一貫しています。

 開戦前の時点で井上が作成した「海軍航空戦備ノ現状(昭和16年7月17日記述)」という文書があります。これは、同7月3日に海軍省と軍令部の首脳が出席する「臨時部課長会報」において開示された「帝国大方針」に対する自身の考えを述べ、海軍大臣・軍令部総長以下海軍関係の幹部に提出したものです。ここで「会報」とは、討議して決定する「会議」ではなく、既に決定した方針を報知するために開かれる集まり、ということだそうです。つまり、井上にしてみれば、決定されたものを後で知らされた、ということになります。この「会報」の場においても井上は異議を唱えていますが、会議ではないので決定はくつがえりません。そこで井上は諦めきれずに、二週間後海軍大臣・軍令部総長を始めとする海軍首脳に意見書を提出しています。

小官ハ本政策ガ現実ヲ離レタル紙上ノ空論ニシテ、政策ガ全ク宙ニ浮游シ居ルコトヲ指摘



 井上はこの方針を現実離れした紙の上の空論であると断じています。「帝国大方針」とは、同年7月2日の御前会議において決定された「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」のことで、「海軍が主張する南方進出と陸軍が主張する対ソ戦の準備という、二正面での作戦展開」をその内容とするものです。

 井上は、この文書で当時の日本の飛行機や機銃・弾薬包、爆弾、魚雷といった「戦備充実ノ現状」、飛行機生産を例とした「生産力ノ現状及拡充予想」について具体的な数字を挙げ、次のように述べています。

右ノ如ク、生産拡充途上ノ現施設ヲ以テ、戦時全力発揮・生産五割増ヲ行ハントスルモ、之ガ実施ハ極メテ困難ニシテ、…急速対英米戦備ノ如キハ、全ク不可解ナリ。



 今の戦力を全て使い、生産を5割増やしても対英米戦争の準備はできない、と言い、次のように結論づけています。要点を記します。

◯準備が整うのは、(1年以上あとの)概ね昭和17年度後半になるだろう。
◯戦備に必要な原材料中、必ず必要な品目の手持ちは、作戦を1年間持続するに足りない。



 そして、対策として

◯国家の目標を一つにして、敵国をやたらに増やすな。
◯陸軍の対ソ戦備は、国力不足により海軍の対英米戦備と両立しないので、直ちに中止しろ。
◯対ソ戦争を行ってもアメリカは日本を攻撃しないだろう、などと気休めの一時逃れのようなことで政策を決めるな。
◯帝国の存立のためには海軍の充実が絶対条件だ。



ということを述べています。開戦間際の、恐らくは軍も国民も戦争に前のめりになっている状況の中、冷静な分析をしてそれを上席に訴える井上の姿は、この時代の理性として、珠玉の輝きを放っているように思えます。

 この意見書は開戦間際のものですが、実はこれに先立つ昭和16年1月30日、井上が海軍大臣に提出した「新軍備計画論」という、まとまった意見書がありました。これは、当時軍令部が作成した「海軍軍備計画(第5次)」に対し、これを根本的に改定する必要があると批判し、持論を展開したものです。まず、日米戦争の形態として次のように述べています。

米国の国土は広大なため、米国全土を攻略することも首都を攻略することも できず、物資が豊富で海岸も長大で海上封鎖もできないため、物資を窮乏させ死命を制することはできない。一方米国の方は、日本の全土占領、首都占領が可能であり、海上封鎖により物資窮乏に導くことも可能である。そこで日本が米国に負けないことは可能だが、米国を屈服することは不可能である。

こうした条件の中で戦争の粗筋を考えると次のようになる
・米国は潜水艦と航空機で、物資封鎖を狙い日本の海上交通を破壊してくるだろうから、海上交通確保が日米戦争の重要な作戦となる。
・そこで日本は、東洋にある米領土攻略戦を実施して航空基地を奪い、日本の航空機活動を更に進めるべきである。
・米国は航空機で日本の基地を攻略し機を見て日本の本土空襲を企てるはずである。だから日本としては米国の基地攻略を実施する必要がある。
・東洋にある米領土を全部攻略すれば米国の航空機は活動できず、米主力艦は西太平洋に出てこれなくなる。
・そうなれば艦隊決戦は起きない。この領土攻略戦は、旧時の主力艦隊の決戦に匹敵するのだ。
・こうした日米の領土攻略戦は持久戦の性質を帯びることになるので、そのための準備をしなければならない。
・旧時の艦隊決戦による速戦速決のような戦い方は行われないのにその準備だけを考えていると、戦争に負けてしまう。

こうした戦争形態からすると、帝国海軍の軍備整備の要件は次のようになる。
・敵は航空機、潜水艦、機動水上部隊となるので、これに対応する兵力の保持・運用が必要である。
・帝国海軍は、西太平洋に分散する基地とそこで活動する作戦部隊に対する補給線の確保に必要な兵力を整備する。
・優秀な航空兵力による制空権の確保と、多数の潜水艦の活動を整備する。



 以上が「新軍備計画論」の概要です。井上が批判した「海軍軍備計画(第5次)」は、それ以前の計画が対米25%でしかなかたったものを60%にする、というように対米比率を重視したもので、考え方も巨大戦艦に依存したものでした。井上はのちに「思い出の記 続編」という文章で、このときの海軍首脳会議で次のような意見を言ったと書いています。タイトルが「明治のあたまで昭和の軍備」となっています。

この計画を拝見し、かつ、ただいまの御説明を聴くに、失礼ながらあまりにも旧式で、これではまるで明治・大正時代の軍備計画である。アメリカの軍備に追従して、各種の艦艇をその何割かに持ってゆくだけの、誠に月並みの計画である。同じ金を使うなら、もう少し気の利いた使い方をすべきだと思う。



 この会議はこれで終了したので、ではどうしたらいいか、ということについて井上がまとめたものが「新軍備計画論」ということです。

 「新軍備計画論」において井上が主張したのは、要するに「戦艦不要論」と「海軍の空軍化」ということです。事実、勝敗を決する主力は航空機の時代になっていきます。そこでは航空基地の確保が重要な要素となりますから、基地の争奪戦が起きてきます。南西諸島で戦われた戦争は、確かに基地の奪い合いでした。その結果、艦隊の位置付けは相対的に下がっていきます。

 大艦隊で巨砲を撃ち合い、沈んだ方が負け、というような艦隊決戦の時代は終わったということです。そこで、艦隊を作るくらいなら、飛行機を増やせ。これが井上の主張です。また井上は「基地は絶対に沈まぬ航空母艦である」とも言っています。さらに基地の維持のためには物資の補給が生命線となります。この点でも日本の準備は十分ではありませんでした。結果、太平洋戦争で日本は多くの犠牲者を出してしまいます。

尚、その他の予言、警告も残らず実戦が証明(日本の負ける方に)したのは恐ろしくもあり悲しくもあり。



 このように井上自身、当時の自分の警告どおりになってしまったと嘆いています。

井上の軍歴



 井上の海軍生活は明治39年から始まり、その後昇進を繰り返しながら、最後は海軍大臣となります。その間井上は、時々の情勢に対して常に正確な認識を持ち、的確な判断をしていきます。井上成美は常に井上成美であり続けました。時代にそって井上の軍歴をみてみます。

明治39 16歳〜
海軍兵学校生徒となる
・広島の江田島にある海軍兵学校(第37期)生徒となる。



 ここから井上の海軍生活がスタートします。学校では成績優秀、卒業後も紆余曲折はありますが、着実に階級が上がって行きます。

明治42 19歳〜
海軍少尉候補生となる
・第1期実務練習として、練習艦隊「宗谷」に乗り組み、オーストラリア方面への「遠洋航海」(横須賀出港)に出る。
・第2期実務練習として戦艦「三笠」及び戦艦「春日」に乗り組む。



 練習艦隊「宗谷」の艦長は鈴木貫太郎、山本五十六が第一分隊長でした。鈴木貫太郎は後に首相となり戦争を終結させ、山本五十六は日米開戦に反対していた人物です。井上は、こういう人たちの中で育っていきます。

明治43 20歳〜
海軍少尉となる
・一等巡洋艦「鞍馬」で、皇帝ジョージ5世の戴冠式に際して行われる観艦式に参列の目的でイギリスへ行く。
・横須賀楠ケ浦にある海軍砲術学校普通科学生となる。米内光政、山本五十六が教官。
・横須賀田浦にある海軍水雷学校普通科学生となる。



 海軍砲術学校と海軍水雷学校の普通科は、ともに初級将校(少尉・中尉)を対象とした学校で、将校必修のコースでした。このときは両校それぞれ4ケ月の課程で、井上はここを優秀な成績で卒業し、海上勤務となります。なお、普通科の上には専門技術を高めるための、大尉・少佐を対象とした高等科がありました。

 また、井上が砲術学校で学んでいる時、教官として米内・山本がいました。米内は井上より9歳、山本は4歳年上でした。のちに海軍省でともに働くことになります。

大正元年 22歳〜
海軍中尉となる
・「高千穂」(横須賀出港)に乗り込み小笠原方面の測量任務につく。
・巡洋戦艦「比叡」(横須賀出港)に乗り込み、青島攻略部隊間接掩護作戦に参加する。
・二等駆逐艦「桜」に乗り込み、伊勢湾にて海軍大演習。



 「比叡」は横須賀海軍工廠で起工された巡洋戦艦で、大正元年に進水しています。この「比叡」で井上は大正3年に青島に向かいましたが、会敵することなく警備任務等の任務で作戦行動を終えています。

大正4年 26歳〜
海軍大尉となる
・当時世界最大最新鋭の超弩級戦艦「扶桑」分隊長となる。 *弩=当時最大の戦艦であった英ドレッドノートのドの当字
・東京築地にある海軍大学校の乙種学生となり、普通学とくに高等数学を学ぶ。
・海軍大学校の専修学生となり航海術を学ぶ。
・一等砲艦「淀」にて横須賀出港。英の要請による対独警備行動として、ドイツ領南洋諸島の占領地整備に従事。
・ドイツに向かうが、第一次世界大戦後の平和条約が締結されていなかったため入国できずスイスに留まる。
・ドイツ駐在。ドイツ語修得に従事。
・フランス駐在。フランス語の修得に従事。




 次々に学生になったり船に乗ったりと、随分いろんなことをやるんだなと思います。ここまでの井上の経歴を整理すると次のような経過をたどっています。

〇海軍兵学校生徒
 ↓
〇海軍少尉候補生
 ↓
少尉 「鞍馬」乗組→砲術学校・水雷学校
 ↓
〇中尉 「高千穂」「比叡」「桜」乗組
 ↓
〇大尉 「扶桑」分隊長→海軍大学校乙種学生→海軍大学校専修学生→「淀」航海長




 これをみると、学校と海上勤務を繰り返しながら、階級が上がっていくのがわかります。海大乙種というのは、高等科に分かれる前の教養課程なので、普通学を学ぶ学校ということです。この後、砲術・水雷・航空とそれぞれの高等科学生となって専門がわかれていきます。井上は、引き続き海大にある航空科で教育を受けました。なお、砲術と水雷は横須賀にある砲術・水雷学校高等科に行くことになります。

大正10年 31歳〜
海軍少佐となる
・二等巡洋艦「球磨」航海長として、日本を訪問するイギリス皇太子の乗る御召艦に香港から横浜まで随伴。
・高級幹部要員が高等用兵を学ぶ海軍大学校甲種学生(兵学校卒業者の15%前後しか入れないエリート集団)となる。



 大正11年、日本軍はシベリアから撤退しますが、このシベリア出兵や第一次世界大戦に日本が参戦したことについて、「軍隊は国の独立を保持するものであって、政策に使うのは邪道。独立を保てぬという時は戦争をやるが、政策の具に使ってはならぬ。」(p87)と井上は考えていました。戦争はどういうときにやるものか、現在に生きる我々もしかと考える必要があります。

 球磨航海長として海上勤務を務めた井上は、海軍大学校甲種学生となります。この時井上は、霞ヶ浦海軍航空隊で約一ヶ月間航空機に搭乗して航空機の用法を研究しています。すでにこの時、井上の関心が航空機に向いていることがわかります。

大正14年 35歳〜
海軍中佐となる
・艦隊・軍隊の編制、艦船・部隊・学校の定員制度等に関する事務を所管する海軍省軍務局局員(第1課B局員)となる。
・イタリア駐在武官となり軍事に関する情報交換や情報収集を担当する。



昭和4年 39歳〜
海軍大佐となる
・海軍大学校教官(戦略教官)に続き「海軍軍政ニ関スル事項」を掌る軍務局筆頭課である海軍省軍務局第一課長となる。
・関東軍の不法越境に対し「海軍として…これを砲爆撃することあり得べし」と陸軍省軍事課長山下奉文に申し入れる。
・海軍軍令部条例・省部事務互渉規定改定反対を貫く。
・練習艦「比叡」艦長となる。




 この時期は、ロンドン海軍軍縮条約に対し野党立憲政友会犬養毅、鳩山一郎らが「統帥権干犯」であると攻撃し、海軍においても条約派(条約やむなし)と艦隊派(条約反対)に割れていた頃ですが、ここでの注目は、海軍軍令部条例・省部事務互渉規定改定に対する井上の動きです。

 海軍軍令部は当初、海軍省の一部局でした。つまり、軍令部という軍事は海軍省という軍政に従属していました。シビリアンコントロール(文民統治)に近い考え方です。

 ちなみに、陸軍はすでに参謀本部(軍事)が陸軍省(政治)から独立してしまっていました。ですから井上が山下奉文大佐に申し入れた、中国における「関東軍不法越境事件」のように政府の統制がきかない、つまり軍事に対する政治のコントロールがきかない、という事態も発生しています。

 海軍軍令部条例と省部事務互渉規定改定の中身は、海軍大臣が持っている権限を軍令部に移すというもので、要するに軍令部の権限を強化しようとするものです。井上はこのとき海軍の軍政を掌る軍務局の筆頭課長ですから、当然この条例に反対します。最後は井上を説得しようとする上官に対し、この案を通すなら課長をイエスマンに変えればいいだろう、自分はこんな海軍にはいたくない、と言って家へ帰ってしまいます。

 そんなんことで井上は第一課長の席を奪われてしまいました。しかし、井上の主張こそ、正しい組織論だったのです。

 このごたごたがあってからおよそ1年後、井上は練習艦隊「比叡」の艦長となります。当時の海軍では、「大鑑の艦長として二年間の海上勤務を経ることを、将官コースに進むための必須条件とする不文律があった」ということなので、井上に対するこの人事は、いっとき軍政から外すけれども、またどこかで生かそうとする思惑があったのでしょう。井上の才能のなせる技、という感じがします。

昭和10年 45歳〜
海軍少将となる
・横須賀鎮守府参謀となる。司令長官は米内光政。このとき二二六事件起きる。
・海軍省軍務局となる。海軍大臣は米内光政、海軍次官山本五十六。三人そろって日独伊三国軍事同盟に反対。
・支那方面艦隊参謀長兼第三艦隊参謀長となる。




 二二六事件では、岡田啓介首相(退役海軍大将)・斎藤実内大臣(予備役海軍大将)・鈴木貫太郎侍従長(予備役海軍大将)の3人の海軍関係者が襲われ、斎藤実が死亡しています。事件を知った井上は海軍省ビルのある東京へ向け、横須賀鎮守府の陸戦隊を派遣します。海軍大将が襲われ海軍が派兵する、というこの場面を見ると、あたかも陸軍と海軍の内戦にようにも見えます。陸軍と海軍は事実三国同盟締結を巡り対立していました。

 日独伊三国軍事同盟に反対する井上の意見は、井上の発言の中でも白眉だと思います。ここには、国家が戦うべきときはどんな時で、戦うべきでないときはどんな時なのか、そのことに関する思想が明確に表れていると思えるからです。

 三国軍事同盟の条約案に、 「ドイツまたはイタリアが戦争状態に入った場合は、日本は自動的に戦争に加担する」という「自動参戦」義務条項というものがありました。これに対し井上は、「自国の生存が脅かされる場合はたとえ負けるとわかっていても戦うべきであるが、国策の手段として、他国と組んで戦争を仕掛けるべきではない」(p227)という信念から三国同盟に反対していました。

国軍ノ本質ハ、国家ノ存立ヲ擁護スルニアリ。他国ノ戦イニ馳セ参ズルガ如キハ、ソノ本質ニ違反ス。前(第一次)大戦ニ日本ガ参戦セルモ邪道ナリ
タトエ締盟国ガ、他ヨリ攻撃セラレタル場合ニ於テモ、自動参戦ハ絶対ニ不賛成ニシテ、コノ説ハ最後マデ堅持シテ譲ラザリキ。



 時の海軍大臣は米内光政、次官は山本五十六、そして井上は海軍軍政を掌る軍務局長という強力な布陣でした。しかし、時の陸相板垣征四郎は強力に三国同盟を推進しようとし、平沼首相はどうしていいかわからず態度をはっきりさせない。こうして、陸相と海相の対立がピークに達する昭和14年8月、日本が同盟を結ぼうとしていた肝心のドイツが、日本と敵対していたロシアと同盟を結んでしまいます。独ソ不可侵条約です。

 こうして三国同盟の解決を基本政策としていた平沼内閣は、有名なあの「複雑怪奇」のセリフを残し瓦解、三国同盟は立ち消えとなります。海軍の主張の勝利ということですが、この後井上は、支那方面艦隊参謀長兼第三艦隊参謀長となり、日中戦争さなかの中国へ向かいます。三国同盟に強烈に反対したため、海上へ追いやられたのかもしれません。

 米内は一旦内閣総理大臣となりますが、半年で総辞職してすでに海軍省を去っており、山本は連合艦隊司令長官として海の上。こうしてトリオが海軍省を去った翌年の昭和15年、日独伊三国軍事同盟は成立してしまい、太平洋戦争へと突入していくことになります。

昭和14年 49歳〜
海軍中将となる
・海軍航空本部として「新軍備計画論」を及川海相に提出。「海軍航空戦備ノ現状」を海相・軍令部総長らに説明。
・第四艦隊司令長としてサイパン島泊の旗艦「鹿島」に着任。グアム・マキン・タワラ・ウェーク島攻撃、珊瑚海海戦。
・海軍兵学校校長となる。
・海軍次官となり終戦工作を開始。



 海軍航空本部長となった井上は、「新軍備計画論」を提出するなどして日米開戦に反対しますが、その結果海上勤務となりサイパンへ向かいます。そして昭和16 年12月には、第四艦隊司令長官として日米開戦の日を迎えます。

 12月8日真珠湾攻撃と同日、井上率いる第四艦隊はグアム島を攻略し、その後、ウェーク島・ビスマルク諸島・マーシャル諸島・ソロモン諸島などにおいて米国と戦っています。

 最大の戦いは昭和17年5月7日と8日に戦われた珊瑚海海戦でした。これは、ニューギニアの東南部にあるポートモレスビーを攻略し、そこを足掛かりにオーストラリア北東部の基地を叩くという日本のモレスビー作戦をめぐって、米機動部隊と第四艦隊を主力に編成された南洋部隊が戦った海戦です。南洋部隊の指揮はもちろん井上でした。

 海戦の戦果は日本軍がわずかに勝りましたが、目指すポートモレスビーは攻略できませんでした。またも負けたか四艦隊、と陰口をたたかれたようですが、井上自身、「要スルニ本海戦ハ、将軍ハ失敗シ、兵ガ勝チタルモノナリ」と総括しています。こうして井上の戦いは終わり、続いて母校である海軍兵学校の校長に着任することになります。

 この時代に思わず唸るようなエピソードがあります。戦争の激化に伴い、兵学校の教育期間を短縮する案に対する井上の発言です。

私は米作りの百姓です。中央でどんなに米が入用か知りませんが、青田を刈ったって米はとれません



 海軍兵学校を視察に訪れ、教育期間短縮を求める永野修身元帥(当時軍令総長の役を終え元帥に就任した頃でした)に対し、井上はこのように答えて永野の申し出を断ります。このような井上の考えに対し、戦争の状況から短縮はやむを得ないという意見が、当然のように大勢を占めます。実は井上には、この時点では言えなかった、教育期間短縮反対の本当の理由がありました。戦後、かつての教え子たちにこんな話をしています。

もうその頃になると、戦争の将来がどうなるかははっきり見通しがついていました。…戦争だからといって早く卒業させ、未熟のまま前線に出して戦死させるよりも、立派に基礎教育を今のうちに行い、戦後の復興に役立たせたいというのが私の真意でした。



 現在、米軍横須賀基地内にある在日米海軍司令部庁舎は、戦前の旧横須賀鎮守府庁舎です。これは戦後の日本とアメリカの関係を表している、極めて象徴的な建物だと思うのですが、なぜ太平洋戦争の時に米軍はこの場所を攻撃しなかったのか不思議でした。先日、占領後に米軍が自分たちで使うことを考えていたんだ、という説を逸見の飲み屋で聞き、なるほどと思いました。あり得そうな話です。

 井上のエピソードは、米国のしたたかさとは異なりますが、「先を見る」という意味では同様のものがあります。優秀な人材を戦後の復興のために残しておきたい、という先を見据えた考えは、周囲が目の前の戦闘のことしか考えていないだけに出色です。井上が見ていたのは戦争の勝ち負けでなく、この国の行く末と人々の幸福な生活であった、ということではないでしょうか。

 井上成美が海軍次官になったときの内閣総理大臣は小磯国昭陸軍大将、海軍大臣米内光政大将でした。井上は次官になってすぐに、旧くからの同志である、当時海軍省教育局長であった高木惣吉とともに、「いかにして戦争をやめたらいいのかの研究」を始めます。敗戦のおよそ1年前のことです。

陸軍を押さえ得るのは天皇のみであった。では天皇を動かすにはどうしたらよいか。それには、すべての和平志向勢力を有機的に結びつけ、これを収斂して表は閣議や最高戦争指導会議などに出席する米内海相、そして裏では米内復活の原動力になった重臣岡田啓介に持っていく。そして、天皇の信頼の篤い岡田の力を藉りて聖断を仰ぎ、戦争を終結させる。これが井上と高木の間で行われた協議の結果であった。



 昭和20年8月10日、御前会議によりポツダム宣言受諾が決定します。天皇の聖断をあと押したのは、井上と高木の考えのとおり重臣岡田啓介でした。ただし、沖縄・広島・長崎と大きな犠牲を伴うものでした。

 昭和49年春、風邪をこじらせて発熱し入院した井上が「早くしないと若い者たちがどんどん死んでしまう。早くなんとかいそがなければ…」と体を震わせて叫んでいた、というエピソードがあります。戦後30年の歳月を経てもなお、和平を急いだ井上の執念が伝わってくるようです。

昭和20年 55歳〜
海軍大将となる
・軍事参議官となる。



 海軍大将になった5月15日、井上は軍事参議官に親任されます。軍事参議官は、統帥部のもとにあって重要な軍務の諮問に応ずる任務を負っているのですが、実際には閑職で、古参将官の名誉職、あるいは次の親補職までの待機ポストになっていたようです。井上自身は次官を続け、自分が手がけた和平工作を最後までやりとげたいと思っていました。しかし、理由は不明ですが、結果として次官職を外されてしまいます。ここで井上の仕事は終わったといえます。そして、およそ3ケ月後に敗戦を迎えます。

 嶋田が海軍大臣になって日米開戦に踏み切ったことに対し、井上は戦後、次のように語っています。

貴様は潔癖すぎるんだ、完全慾が強すぎるんだ、といわれれば、それでもいい。しかし、わたしが許しがたいと思うのは、太平洋戦争の始まるときの、ぐうたら兵衛に追随して国を危うくしたやつ、私はこいつらの首を切ってやりたいと思うぐらいに憤慨しました。



<現在の長井中学校> この怒りは本物だと感じます。この井上は、英語教師などをしながら晩年を横須賀の長井で過ごしていました。海軍時代も引退後も横須賀に深いかかわりのあった井上成美でした。昭和22年、井上の住む長井町に長井中学校が開校します。敗戦後のすさんだ世相の中、盗み・喧嘩・傷害など中学生の非行に悩んだ教師が、「井上の英語塾に子どもを通わせるぞ」と脅すと、「悪がき」がおとなしくなった、という話が残っています。

 井上が晩年を過ごした長井の家の庭からは、荒崎の海がすぐ足下に臨めます。その日の夕方、井上は床を抜け出し、ひとしきりベランダから海を眺めていました。床に戻ってしばらくののち、井上は静かに息を引き取ります。海に一生を捧げた男にふさわしい場所での最期でした。井上の人生から私たちは、人としての生き方、仕事への向き合い方、そして死に方を学ぶことができます。荒崎のバス停から井上邸に向かって細い坂道を登っていくと、背筋を伸ばして歩く井上の、凛とした姿に出会えるような気がします。

参考文献
 「井上成美」井上成美伝記刊行会
 「井上成美」阿川弘之著(新潮文庫)
 「小松物語」浅田勁著(かなしん出版)