馬淵 曜(あきら)のこと


はじめに


 馬淵組というと、横須賀では知らない人のいない有名な建設業者ですが、この馬淵組の創業者である馬淵曜(あきら)という人が馬淵聾唖学校を創設し、それが現在森崎にある横須賀市立ろう学校となっていることは、一般にはあまり知られていません。馬淵氏の業績をみると、建築業者というよりも、社会活動家といった趣を感じます。事業の発展によって得た財産を、馬淵は社会事業や教育事業に注いでいます。こうした先人が、現在の横須賀を作り上げたのだと思います。

経 歴

  • 明治 7年(1874) 鳥取県東伯郡古庄庶林に生まれる
  • 明治27年(1894) 私立東京法学院英法科を中退し、土木建設業に従事
  • 明治42年(1909) 馬淵組を設立
  • 大正15年(1926) 旧海軍横須賀鎮守府庁舎を起工、完成
  • 昭和34年(1959) 死去・享年84歳

教育事業

  • 大正14年(1925) 横須賀夜間中学校を開校
  • 昭和 4年(1929) 馬淵聾唖学校を自宅にて開校
  • 昭和 5年(1930) ガラスの城と呼ばれる校舎・寄宿舎を建設



 曜は、学ぶ意志をもちながら経済事情で機会を失っている若者のために、夜間中学校を開校します。現在の県立横須賀高等学校定時制です。当時は、豊島小学校で授業を行っており、運営費は曜が出していました。功をなした青年たちの報恩の申し出に対し、「君と同じ境遇の青年を世話してやってくれ、それが僕への恩返し」だと常に語っていたそうです。実に心温まるエピソードです。

 昭和3年9月、神奈川県方面委員(現在の民生委員)をしていた曜は、愛知県立名古屋聾学校を訪れます。ここで曜は、聾唖児の教育の困難であることを感じ、横須賀にも聾唖学校を作ろうと決意します。困難であるからこそ自分が取り組む意義がある。曜の人生は、困難への挑戦の連続であった、といえそうです。そしてそれから1年もたたないうちに、聾児12人を迎え私設聾唖学校を開校してしまいます。

 その後昭和6年には、小矢部の丘に新しい校舎を建てました。教室の壁は一面の窓で、明かるい日差しが燦々と降りそそぐ建物でした。また寄宿舎は総ヒノキ作りで旅館のように立派だったといいます。「不幸な子どもたちであるから、せめて校舎だけは素晴らしいものにしたい」。この学校にかけた曜の意気込みが伝わってきます。

 しかし立派なのは校舎だけでありません。教育内容についても、裁縫・工芸・籐工芸など、先進的な取り組みがありました。そして敗戦後の不景気の中で、本体の事業である馬淵組の経営が危機にあったときも、曜は自分の土地や家屋を売却しながら、教育事業を休むことなく続けた、といいいます。「誰もやろうとしない事業こそ、天が自分に与えた使命である。」

 この言葉に曜の人生が凝縮されています。

馬淵組(土木建築請負業)の創立者馬淵曜は、聾唖者に対してかねてから強い同情を持ち、三年の昭和天皇即位の大典を記念する事業として聾学校の設立を決意し、四年五月、一二人の生徒を収容し、許可を得て馬淵聾唖学校を設立する。校則の第一条に、「聾唖者に普通教育を施しその生活に須要なる特殊の知識技能を授くるを以て目的とし、特に国民道徳の涵養に力む」としている。校舎一五〇坪に体育場兼講堂を持つ校舎を備え、予科・初等部・中等部一五六人の定員であった。<馬淵聾唖学校編『本校の沿革と聾唖教育』>。(「新横須賀市史P674)



 馬淵聾唖学校は、現在森崎にある横須賀市立ろう学校となっています。校門を入るとすぐ左に、妻の和子夫人の像とならんで、曜の胸像があります。胸像は現在の新しいろう学校の校舎に向き合うように立っています。一見、頑固で一徹にみえるその表情は、しかし曜の人生を思いながら眺めていると、いつしかたまらなく優しく慈しみのある表情に見えてきます。強い意志と弱き者を思う気持ちが一つになったとき、人の人生はこれほど輝くものかと思えてきます。横須賀が生んだ最高の人格だと私は思います。

もう一つの顔


 新横須賀市史に、次のようなエピソードがのっています。

 昭和16年(1941)1月20日、新しい市長選出の銓衡委員会が始まります。銓衡委員会という言葉は聞きなれませんが、市会に対して市長の候補者を推薦する委員会のようです。1月23日に開かれた銓衡委員会における票数は、岡本伝之助5票小佐野皆吉3票でしたが、この時の10人の候補者の中に馬淵曜も入っており、2票を獲得しています。

 その後、候補者は岡本と小佐野に絞られ、結局、岡本が候補者として市会に推薦され、満場一致で市長に就任していますが、もしかしたら、馬淵市長の誕生もあり得ない話ではなかったのでしょうか。ところで、この岡本市長誕生の裏には、馬淵の動きがありました。

 実は1月23日の結果を受け、24日に当時の石渡市会議長が鎮守府を訪問し、鎮守府の意向を打診してるのです。鎮守府はこのとき、「軍民一致が必要な超非常時であり、軍も市長選挙に関心をもっている」と説明があったそうです。一方岡本は同日、前参謀長から市長就任を嘱望され、翌日参謀長から市長受諾の勧誘を受けています。つまりここで、次の市長は岡本に内定していたわけですが、2月1日に行われた銓衡委員会では、2人に絞られた候補のうち、岡本2票に対し、小佐野が7票を獲得してしまったのです。しかしすでに海軍の意向は岡本で内定していたわけですから、これを覆すわけにはいきません。

 このとき調整役となったのが馬淵でした。馬淵は小佐野に海軍の意向を伝え、小佐野は辞意を表明します。こうして岡本市長が誕生しました。馬淵組は鎮守府庁舎の建設を請け負っているように、海軍とは密接な関係があったのでしょう。建設業のただの「おやじ」ではなかったようです。建設業も政治的な動きも聾唖学校の設立も、すべては「世のため、人のため」という馬淵の信念に基づくものだったのでしょう。私たちの横須賀は、こうした人の築いた土台の上に成り立っていることを噛みしめるべきだと思います。

 馬淵は常々「目の前だけの仕事をするな」と言っていたそうです。台座には次の文が刻まれています。


馬淵先生ハ吾等ノ慈父恩師ナリ今でも聾学校の校舎を見つめる馬淵曜先生像
先生昭和四年四月御大典記念ノタメ
馬淵聾唖学校ヲ設立シ
校長トシテ後半生ヲ献ケラル
今ヤ其の恵澤四隣ニ洽シ
茲に先生ノ御還暦ニ際シ
敬シク壽像ヲ校庭二建テ以て謝恩ノ意ヲ表ス
  昭和九年十二月二十七日  敬曜会






参考文献
 「続・横須賀人物往来」(財)横須賀生涯学習財団
 「馬淵建設株式会社ホームページ」
 「馬淵建設百年史」馬淵建設株式会社
 「馬淵曜先生小伝」敬曜会編
 「新横須賀市史」