ベントン・W・デッカーのこと


はじめに


 横須賀海軍基地は、1945年(昭和20年)8月30日に米軍に明け渡され、以後、米海軍横須賀基地となりました。この米軍横須賀基地の四代目の司令官がベントン・W・デッカーでした。横須賀基地が米軍に占領された日から数えて、およそ8ヶ月後のことです。

 それまでの3代の司令官は、数か月ごとに代わりましたが、デッカーは1946年4月から1950年6月までの約4年間、横須賀基地司令官として占領行政を担当しました。現在の横須賀市の民生の基礎は、このデッカーの功績によるところが大きいといえるでしょう。

黒船の再来


 デッカーは横須賀市で、病院や学校の設立を促進していきます。その活動は、日本に民主主義を定着させる、という自己の使命に裏打ちされています。デッカーと夫人による著書の題名は「黒船の再来」です。幕末、黒船が日本を訪れ、封建体制を終わらせ近代国家をもたらす契機となったように、デッカーは敗戦後の横須賀を訪れ、「民主主義体制」をもたらした。これが、デッカーの著書の題名の意味です。

 さらにデッカーにとって、民主主義の実現にはキリスト教が欠かせないものであり、民主主義とキリスト教は一体のものでした。デッカーは、基地にいたプロテスタントの牧師とカトリックの神父を活用し、横須賀にキリスト教を広めます。カトリックの神父はポズナンスキー神父という名で、この人がキリスト教の関係者を横須賀に集め、病院や学校を作っていくのでした。

太平洋の平和は、二つにかかっていた。それは、日本が民主主義国家であることと米国と同盟関係になることだった。しかし、国民がキリスト教を信じない限り民主主義は存在し得ない。したがって、われわれはキリスト教を奨励し、キリスト教主義を強調すべきだ。(第一章 民主主義への扉を開かせた)


デッカーの業績

病院建設


 現在の聖ヨゼフ病院の前身は、昭和14年 3月に創設された横須賀海仁会病院で、旧海軍のものでした。デッカーが着任した当時は木賃宿として使用されていたものを、デッカーが従軍牧師に言いつけて民間病院に作り直させたとあります。

 キリスト教のつながりで、福岡県からアンベルト・ブルトンという名の司教が呼ばれ病院再建に尽力します。アンベルト・ブルトン司教は当時65歳でサンタクロースのような白髯の人でした。彼の意向でこの病院は聖ヨゼフ病院となったそうです。

 デッカーは、当時の病院内にいた「無断居住者」を追い出し、トラック91台分のごみを運処分し、修道女たちがここをきれいに清掃します。こうして、カトリック修道会である聖母訪問会による聖ヨゼフ病院が誕生することになります。

 他にも、衣笠病院のホームページには、デッカーとの関係が示されています。

学校建設


 ブルトン司教を横須賀に連れてきたポズナンスキー神父は、今度はイエズス会の神父たちを横須賀に招き入れ、田浦(旧水雷学校跡)に学校を作りました。これが栄光学園です。栄光学園は、昭和22年(1947)に開校し昭和39年(1964年)に大船に移転するまでの間、この田浦の地で発展するのでした。

 さらにポズナンスキー神父は、長野県から6人の修道女を連れてきます。この修道女たちは、女学校を始めたいという希望をもった人たちでした。この中のマザー・エルネスティーナ・ラマリョという女性が清泉女学院の初代校長となりました。この学校も今は大船に移転しましたが、この時は、稲岡町3番地(旧海軍工機学校跡)につくられたのです。


 ほかにも、三笠公園の隣にある横須賀学院は、もともと青山学院横須賀分校だったものが、青山学院の横須賀からの撤退に伴い、地元の教会関係者の協力で、新たに「横須賀学院」として再スタートしたものですが、青山学院が横須賀に進出したのは、デッカーの働きかけによるものでした。

キリスト教徒の活躍


 デッカーが頼りにしたキリスト教徒たちは、一体いつ、そしてなぜ日本に来たのか不思議に思い調べてみました。

 まず、ブルトン司教は、1882年(明治15年)フランスに生まれ、1905年(明治38年)に来日、青森で司祭となります。司祭というのは、司教の下位にある役職です。その後いろいろと変遷がありますが、1931年(昭和6年)から福岡教区の司教となっています。この間の活動をみると、教会や病院をつくったりしています。キリスト教徒は、学校や病院の建設を通してキリスト教の普及を図っていったようです。

 次に、清泉女学院をつくったマザー・エルネスティーナ・ラマリョについてです。この人は
アルゼンチン、ブエノスアイレス生まれで、1934年(昭和9年)に三人の修道女と共に来日しています。「日本における聖心侍女修道会の責任者として、第二次世界大戦前後の混乱期、精力的に各修道院と学校の創設に尽力した」とあります。こうしたキリスト教の人たちは、太平洋戦争の間、どのように暮らしていたのでしょうか。

 例えばブルトン司教は、「太平洋戦争開戦の日12月8日の夕方、米国のスパイという嫌疑により告訴され刑務所に監禁された」とありますので、戦争中も日本に滞在していたことがわかります。この時は無罪となり釈放されていますが、こうした弾圧のようなことにも耐えることができるのが、信仰の強さなのでしょう。

 一方のマザー・エルネスティーナ・ラマリョですが、来日の翌年の1935年4月、東京麻布にある旧志賀直哉邸に、前身となる清泉寮学院を創立しますが、東京大空襲で校舎が焼失したため、1946年に修道女たちの疎開先であった長野に長野清泉女学院を開校しています。外国人も「疎開」して難を逃れていたということです。そして、この人たちが横須賀に来る前に長野にいた理由がこれでわかります。

 キリスト教徒がこうして世界各地で活動する理由は、イエス・キリストの教えを広めて人々を平和に導く、ということにあるのでしょう。戦後まもなくの横須賀市におけるこうした人たちの活動は、1945年の地層となって現在の横須賀を支えている、といえそうです。

馬淵和子のこと


 馬淵和子は、夫の曜とともに横須賀の民生の基礎を築いた人でした。この馬淵和子は、「黒船の再来」にしばしば登場します。夫とともに、戦後の横須賀の発展にとって欠かせない人物であることがわかります。

 馬淵和子は、夫と共に聾唖学校を始めた人ですが、保育所の所長や児童養護施設の施設長なども務めました。こうした活動に加え、1946年に横須賀新生婦人会を結成し、その会長となります。横須賀新生婦人会は、「最盛時には約6万人の会員を擁し、アメリカ占領軍の余剰物資を受け取って市民に配給したり、200人近い従業員を雇って廃品処理所を経営したり」(神奈川新聞2010年11月01日)しました。この婦人会もまた、女性の地位向上が必要と考えたデッカーがその設立を推し進めたものでした。

横須賀市議会の嘆願書


 このように、横須賀の民生の充実を推し進めたデッカーは、多くの横須賀市民に惜しまれて去っていきます。「黒船の再来」には、横須賀市議会議長・岡山八郎がマッカーサー密約にあてた嘆願書(1948年3月26日)が載っています。

私たちは、近々デッカー司令官が帰国されると聞き及んでおります。デッカー司令官が横須賀市の発展継続のために、ここに残ってほしいと横須賀市民は願っております。横須賀市議会は、デッカー司令官を現在の地位に留任・継続してほしい、と世論に基づき満場一致で決議いたしました。閣下の調停により、デッカー司令官を留任させて頂きたく、衷心より閣下に伏してお願い申し上げます。     


引用文献
 「黒船の再来」ベントン・W・デッカー エドウィーナ・N・デッカー 横須賀学の会 訳
参考資料
 栄光学園ホームページ
 清泉女学院ホームページ
 横須賀学院高等学校ホームページ
 ウィキペディア