長野正義のこと


長野正義と教育


 長野正義は明治33年11月3日、当時の鎌倉郡川上村舞岡、今の横浜市戸塚区舞岡町に生まれました。父房吉は長野良淳の長女ヨシと結婚して養子となり、山田姓から長野姓となります。正義の姓はここからきています。父は鎌倉郡阿久和小学校の校長、父の兄弟5人のうち、兄と弟もまた小学校の校長という、教育一族でした。長野は父が校長であった鎌倉郡阿久和小学校尋常科6年を卒業したのち、隣村の中和田小学校高等科へ入学しています。以下、長野の学歴と職歴を、学制の変遷と一緒にみていきます。

 明治時代になると近代的な教育制度が出来ていきますが、当初その制度は目まぐるしく変わっていきます。小学校についてみると、大きくは次のような変遷をたどります。

明治05年
学制公布       下等小学校4年+上等小学校4年 計8年
明治19年
小学校令       尋常小学校4年+高等小学校4年 計8年   *尋常小学校は義務制
明治40年
改正小学校令     尋常小学校6年+高等小学校2年 計8年   *尋常小学校は義務制



 長野が通った小学校は、改正小学校令に基づき義務教育が6年となった尋常小学校にあたります。なお、尋常小学校は明治19年の小学校令において各町村に設置することとされていましたが、高等小学校は各郡に一、二校の設置とされていたので、高等小学校へ進むためには、高等科のある小学校へ入学したのでしょう。法令上高等小学校とありますが、実際には尋常科だけの小学校と尋常科と高等科の両方ある小学校があったようです。

 その後長野は、神奈川県立横浜第一中学校(通称;神中)で1年間学んだ後、「鎌倉の師範学校」へ進学します。

 師範学校とは小学校教師を養成する学校で、神奈川県においては明治9年に横浜師範学校がつくられ、明治19年の師範学校令により神奈川県尋常師範学校となっています。この学校の校舎は当初横浜の野毛にありましたが、明治23年に火災にあい、明治25年鎌倉の雪の下に移転しています。その後、神奈川県尋常師範学校は明治31年の師範教育令において神奈川県師範学校とされます。この学校が長野が学んだ師範学校です。

 この「鎌倉の師範学校」を経て、長野は戸塚小学校訓導(教員のこと)を1年経験し、その後休職扱いで「広島の高等師範」へ進学しています。

 明治5年に官立の学校として東京に設立された師範学校は、その後、明治19年の高等師範学校令において師範学校教員と中学校などの教員を養成する高等師範学校となり、明治35年には広島に第二の高等師範学校が設置されました。長野の通った広島高等師範学校がこれです。

 広島高等師範学校を大正14年3月に卒業した長野は4月から、自身が学んだ横浜の神奈川県立横浜第一中学校に勤務し、その後20年にわたりここで教鞭をとることになります。

 長野が着任した神奈川県立横浜第一中学校(神中)は、明治30年に開校した神奈川県尋常中学校を前身としています。尋常中学校とは明治19年の中学校令において規定されたもので、この時に中学校は5年制の尋常中学校と2年制の高等中学校の二段階に区分されています。その後、神奈川県尋常中学校の校名は以下のような変遷をたどります。 

明治32年
「神奈川県中学校」        第二次中学校令において、「尋常中学校」が「中学校」となったことに伴う
明治33年
「神奈川県第一中学校」      県下で2校目の中学校が小田原に出来た(現在の小田原高等学校)ことに伴う
明治34年
「神奈川県立第一中学校」     「学校の名称に何々立の文字を冠せしむ」との文部省令による
大正02年
「神奈川県立第一横浜中学校」   横浜に第二横浜中学校が出来た(現在の翠嵐高等学校)ことに伴う
大正12年
「神奈川県立横浜第一中学校」   横浜に第三中学校が出来た(現在の緑ヶ丘高等学校)ことに伴う



 このように、明治の後期から大正にかけて中学校(現在の高等学校にあたる)が順次開校していく様子がわかります。県内においては、現在の校名で言うと希望ヶ丘高校・小田原高校・厚木高校と続き、横浜においては、希望ヶ丘高校・翠嵐高校・緑ヶ丘高校と続いています。なお、現在の希望ヶ丘という校名になるのは戦後、昭和25年のことです。

 長野は、神中に20年間勤務しましたが敗戦を機に辞めています。長野が勤務した大正14年から20年間といえば、満州事変から日中戦争を経て太平洋戦争へと至る戦争の時期にあたります。戦時的色彩がだんだん濃くなり、教育は「皇国の道」に基づき「皇国民の錬成」が最高目標となり、学生・生徒たちが戦争に巻き込まれていった時代です。おそらく長野の教え子たちも、学徒勤労動員として決戦体制に総動員されたと思われます。こうした体験が長野の辞職を促したのでしょう。このときの心境を長野はこう記しています。

二十年の永い間、神中の教員として甘んじていたというよりは、多分に心惹かれて勤めていた私が、なぜ急に神中を去ろうと決意したか。それは、敗戦によって、教育者として耐えがたいむなしさを感じたからである。場をかえて考え直そう出直そうと思った。(「敗戦直後の教育」)


 折から、逗子小学校の片隅にある小さな高等女学校の校長の話が舞い込み、長野に横須賀市立逗子高等女学校長の辞令が出ます。高等女学校とは、女子を対象とした中学校に相当する学校で、「良妻賢母たらしむる」教育が行われた学校です。

戦争中、勤労動員されてパラシュート工場で働いていた女子生徒が学校に戻ってきた。英会話を学んだり、新憲法の講義を聞いたり平易に説かれた文学論・演劇論に共鳴したり、午後はグループ活動として、演劇の指導を受けたりピンポンやバレーボールの練習をしたり、古い小さな校舎、狭い校庭ながらも若やいだ歓声があふれていた。(「敗戦直後の教育」)


 戦争から解放され心はずむ女生徒たちが活動する姿を見て、新しい世の中で再び教育の仕事にたずさわる喜びを感じていたであろう長野でしたが、新たな出発となるべきこの立場は長く続きませんでした。着任から1年8ヶ月後の昭和22年4月、長野には新たに新制中学校の校長の役が与えられることになります。不入斗中学校校長です。

 義務制の新制中学校は、昭和21年3月31日提出の米国教育使節団による勧告と、これに関するマッカーサー元帥の声明によって制定された新教育制度の施行により、準備期間を置くこともなく実施されます。不入斗中学校の校舎には、不入斗陸軍重砲兵連隊兵舎が使われました。長野としては「逗子女高の和やかな教育的雰囲気から離れたくない」という気持でしたが、「未来の教育を開拓すべく」新制中学校長を受諾することになります。

 豊島小学校・鶴久保小学校・田戸小学校の学区をまとめた地域が入中の学区でした。金も時間もない状況で、学校は市民の人たちの寄付や善意によって準備されていきます。開校に向け、後援会の役員が大工を集めて暗い兵舎の改造をしたり、父兄が大掃除をしたりして、町ぐるみで準備をしています。また、開校した当初は教科書も机もない中で、小さな黒板で教師が授業をしたり、午後は作業の時間として使い古しの壊れた机や椅子を生徒が修理したりと、教師・生徒・親・地域の人たちが協力して開校にあたっています。

新教育制度がたとえ占領軍の指令によるものとはいえ、新制の中学校発足にあたって、先生や父兄が打ちこんだ情熱は、これからの日本のために新しい教育を開いて行こうという心から出たものと感じた。(「新教育制度の中学校」)


 しかし開校して3ヶ月後、今度は横須賀市教育部の辞令を受け、9月から教育部学務課長を命ぜられます。学校現場から教育行政への異動です。ここでの長野の仕事は市内に新しい学校を整備していくことでしたが、それに加えて翌年の昭和23年9月には「教育研究所」を田浦中学校内に開設しています。現在久里浜にあり、教員の研修や研究事業を行っている横須賀市教育研究所です。長野が市長を退任する際、「教育センター」を作ることが念願であったという心情を吐露していますが、ここにその萌芽があります。長野は教育の仕事が好きだったのです。

 さらに昭和24年6月からは教育部長に昇任します。その結果、新たに発足する教育委員会制度において教育長となります。

 教育委員会法は昭和23年7月15日に公布され、都道府県と5大市においてはその年に、市町村においては昭和27年11月1日に、教育委員会が発足しています。「この法律は、教育が不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきであるという自覚のもとに、公正な民意により、地方の実情に即した教育行政を行うために、教育委員会を設け、教育本来の目的を達成することを目的とする。」とあるとおり、市町村においては5人の委員のうち4人は住民が選挙し、残り1人の委員は、議会の選挙により選出される仕組みでした。

 横須賀市でも公選で選ばれた4名と市議会選出の1名、合わせて5名の教育委員と事務局の長である教育長による教育委員会が発足しました。この時の市長は石渡直次であったが、昭和28年7月に選挙があり、元市長の梅津芳三が再選されて復活しています。梅津は昭和21年11月、戦前の大政翼賛会の支部長に就任した市町村長などを政府が追放する指令(第二次公職追放令)に該当することから、22年1月に辞任していました。

 この梅津市長との関係について、「梅津市長は健全財政確立のため強い緊急政策をとった。教育委員会としてもこれに同調したが、次の二点については、その継続を主張した。」と以下のエピソードを伝えています。次の二点とは、校舎警備委託費と校舎改造計画です。当時横須賀では市立工業学校、不入斗中学校、鶴久保小学校と火事が続き、校舎警備の対策が求める声が強くあがっていました。

私はPTA役員と協議して、全市の学校で、それぞれPTAが不寝番を傭い、市がその経費をPTAに交付するということにして、既に二年継続実施してきた。私は教員の宿直をもって足れりとする市長の主張を拒否した。(「教育委員会の発足」)


 また、横須賀市では、軍用建物を一時的に改造した教室や老朽化した校舎が多かったため、石渡市長のときから鉄筋コンクリート改造の年次計画をたて、校舎改造に取り組んでいました。

緊急政策実施のときであり、古いものでも使え勿体ないではないか、という梅津市長の言葉であった。勿体ないという言葉には私も心打たれるものがあったが、改造計画は教育上緊要であり、かつ国の補助政策に乗り遅れては悔を残すことを縷縷述べて理解を求めた。(「教育委員会の発足」)


 こうした中、政府は昭和31年3月、教育の政治的中立と教育行政の安定を確保するという理由で、教育委員を公選から議会の同意による任命制に変える新たな法律を提案し、強行採決を行います。「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」、略して「地行法」です。教育委員会法においては住民による公選とされていた教育委員選出の方法が、この法律では、地方公共団体の首長が地方議会の同意を経て任命する方法に改められました。

朝令暮改というか、僅か一期、四年足らずして教育委員の公選制は消えて、市議会の同意を得た市長の任命制となり、教育長も教育委員の中から選ばれることになった。昭和三十一年九月三十日、私は教育長の職から消え去った。(「教育委員会の発足」)


 長野が教育長を辞めた翌年の昭和32年7月、横須賀市長選が行われました。このとき現職の梅津に対して、あるきっかけがあり、長野が対立候補として立候補することになります。これが長野の政治家としての人生のスタートとなりました。

参考文献
「横浜・横須賀六十年 私の歩んできた道」長野 正義著 秋山書房

先日、鎌倉の古本屋で見つけました。掘り出し物です!