長野正義のこと


長野正義と政治


 昭和32年7月8日、44、409票対33、185票、前市長梅津芳三に1万票を超える大差で長野が市長に当選しました。長野を市長候補に選んだのは、神中の教え子で当時衆議院議員であった飛鳥田一雄でした。長野が神中の教員時代、障害のある生徒が受験を希望してきます。周囲は前例がないと反対しますが、長野は自分が担任となり責任を持つ、と発言したことで受験が可能となりました。

 その生徒は、後に横浜市長・社会党委員長となる飛鳥田一雄であった、というエピソードは有名です。確かに飛鳥田一雄が杖をついて歩いていた姿は当時を知る者には印象的な記憶として残っていますが、いくら戦前とはいえ、足が少し不自由だという理由で入学できない時代であったのかといささか驚きです。しかし事実こののち飛鳥田が旧制水戸高等学校を受験した際には、左足の障害を理由に入学できなかったということですから、長野の決断は画期的だったのでしょう。

 この時、長野は社会党に押される形で立候補しますが、社会党に対して条件を二つ出しています。

昭和32年4月末頃と思うが二つの条件を出した。今日から考えるとむちゃくちゃと思われるが、当時の私にとっては必須の条件であった。一つは選挙に要する費用は出せない。二つは社会党の政策に拘束されないということである。「よろしい」ということで遂に市長立候補を表明した。(「立候補の経緯と当選後の心境」)


 梅津対長野の戦いは、「官僚出身の現職市長として中央と直結した開発発展策」を展開する梅津と、「独善的官僚市長打倒」「市民と膝を交えて語り合う市政」を呼びかける市民市長との戦いであり、「保守の現市長と革新の前教育長との一騎打ち」という構図でした。そして長野は日教組をはじめ、市内の労働組合や進歩的な市民の支持を受けて大差で当選しま
す。

横須賀市の市長選においては、地方自治革新のために労働者が立ち上がり、固き団結の力をもって、いかにも清新な生々しい運動を展開し、保守勢力の強い米軍基地のある都市に革新市長を誕生せしめた。(「立候補の経緯と当選後の心境」)


 長野は自身このように述べています。しかし、この「革新市長」というレッテルが、のちに長野を苦しめることになります。

社会党推薦で当選した市長であるから、軍備反対・アメリカ海軍基地撤退の旗印を掲げて戦うであろうと、当時はそう思う人もあったようだ。しかし私はさようなことを主張して立候補したのではない。また基地のある市の長となって基地否定の行動をとることは、自己否定につながるものと私は考えている。私は防衛基地のある現実に当面しつつ独自の市政運営を計る決意をした。(「防衛基地における革新市長」)


 「現実に当面しつつ」とあるように、長野市政が最も中心的に取り組んだ課題は、米軍接収施設と区域の解除運動でした。長野自身、基地を持つ市長にとって避けられない重い課題として次の三つをあげています。

① 収地の解除促進を計るため、断えず運動を進め、執拗に当局に要請すること。
②軍の施設の閉鎖乃至変化に伴い、従業員の大量の解雇が行われるため、軍転法により返還された土地に企業を誘致し、離職者の受け入れを計らせること。
③接収地が解除され、国に返還された地域について、国が利用する計画、特に防衛庁の計画と、軍転法による本市の転換計画との競合。(「追浜地区の転換計画と横浜市との境界紛争」)


 長野が市長になった翌33年、「武山地区の米陸軍武山キャンプ・マギル跡地が日本政府に返還」され、翌34年にかけて、「 追浜地区の米陸軍特需会社日本飛行機(株)・同富士モータース(株)・米陸軍追浜兵器廠が閉鎖」 され、接収地が解除されています。

 市のホームページによれば、平成27年3月11日現在、横須賀市内の米軍関係施設は3施設4か所、面積335万9千平方メートルとなっています。これに対し、「長野市政期の32年10月〜48年3月まで返還された施設は40施設区域、総面積は610万0804㎡に及ぶ」(「新横須賀市史」)となっています。すると現在残された施設のおよそ2倍近い面積が長野市政期に返還となっています。またこれは、昭和27年6月6日の秋谷返還から平成25年10月11日の吾妻倉庫地区の一部返還までの総面積のうち、なんと約90%にあたります。つまり、敗戦後から現在までに米国から返還された土地の90%は、長野市政の尽力によるものだ、ということになります。(市HP「提供施設の返還状況」)

 基地をもつ市長にとって避けられない重い課題として長野が一番に挙げている「接収地の解除促進を計るための執拗な当局への要請」について詳しく見てみます。まず、長野が考える具体的な返還要求の構想は次のようになっています。

① 久里浜倉庫地区を基幹産業地域とする。
② 追浜地区の未解除部分とその地先である米軍の制限水域を解除して埋立て、工業地域を完成させる。
③ 船修理部は現在の従業員を吸収した企業組織として再編成する。
④ 衣笠弾薬庫を中央公園墓地とする。
⑤ 武山射撃場を学校・公営住宅・公園用地とする。
⑥ 比与宇の火薬庫は米海軍接収地に集約整理し長浦港の公共野積場とする。
⑦ その他、EMクラブ・長井住宅地区の接収解除を求める。


 しかしこうして返還された施設や土地は国に返還されるのであって、横須賀市にあるからといって必ずしも横須賀市に返還されるというわけではありません。市としては、今度は国に対して返還要望をすることになります。国とても返してもらえるなら、自分のところで使いたいと思うでしょう。ここに国と市の確執が生まれます。長野が三つの重い課題としてあげた最後の課題がこれです。

私はこの勝負7対3でもやむを得ない(もちろん当方が7)と口をすべらして、社会党が怒ったとかいう。保守派は、また相談もなく勝手にやりすぎると難癖を付けるが、こんな交渉ごとに、いちいち相談できるものではないと思った。この調子が、次にとんだ危機を招くことになった。・・・昭和46年11月25日、市議会に再び諮問して同意を得た。革新派は依然反対した。(「提供施設の返還と防衛施設の集約移転」)


 7対3とは、米軍から返還された土地の、市と国の配分のことです。市の取り分が7で国が3なら上々だと思えますが、「絶対反対」の立場からすると、これもで許せないことになります。しかし、7を取るために3を取られることは「やむを得ない」という長野のこの感覚は、政治家としてとても妥当だと考えます。そして結果が伴えば、なおさらのことです。試しに⑤武山射撃場120,102㎡の返還状況を見てみると、次のようです。

国 (約20%)    
河川 3,043 ㎡ 防衛庁宿舎 21,078 ㎡  計24,121㎡
県(約11%) 
県立養護学校 13,020 ㎡         計13,020㎡
市 (約69%)   
武山中学校 22,030㎡ 西部公園 49,976 ㎡ 市道敷 10,955㎡  計82,961㎡



 これを見ると、市の取り分は約69%。使途は学校に公園と、まさに長野の思惑とドンピシャリです。さらに県に譲与された施設は横須賀市民が利用する県立学校となっており、これを含めれば約80%が市民のものとなっています。

 また、保守派が「相談がない」と難癖をつけるのも、それに対して「いちいち相談なんかしていられるか」という反応も、いずれもその立場を考えればよくある話でしょう。今回は施設の返還の話であったから最後には、革新派の反対を受けながらも市議会でも同意を得られましたが、次はそう簡単にはいきません。ここで長野がいう「次の危機」とは、空母ミッドウェイの母港化の問題です。この間のいきさつを時系列に沿って追っていくと次のようです。

昭和47年09月19日  
地司令官カリア大佐、在日米軍司令官バーク少将、太平洋艦隊支援部司令官アームストロング少将と市長・長野、商工会議所会頭・小佐野皆吉が会談。バーク少将から第七艦隊麾下の空母ミッドウェイが横須賀をホームとし家族を居住させたいとの提案がある。
昭和47年09月20日  
小佐野会頭が市長公舎にバーク少将の伝言をもって来訪。内容は、追浜の制限水域を解除するから空母ミッドウェイの寄港と家族居住を認めるか、市長の内意を聞きたいとのこと。

昭和47年09月22日  
在日米軍司令官バーク少将、参謀長フルイン大佐と会見し、米軍は追浜地先制限水域を無条件で解除する、市は空母ミッドウェイの基地として家族が居住する、このことを相互に認める。
昭和47年09月25日  
市議会定例会本会議において、基地問題の質疑の折に空母母港化承認について議会に告げる。

昭和47年10月25日  
横浜防衛施設局長が来訪し、追浜・久里浜・衣笠に加え、武山も横須賀市に譲与する旨伝えてくる。
昭和47年11月27日  
本会議において、空母母港化・艦船修理部共同使用反対の意見書を23対22で否決。
昭和47年12月11日  
日米合同委員会にて、追浜地先制限水域を解除することを決定。
昭和47年12月15日  
本会議において、空母母港化反対の請願について採決し、22対22で同数、議長が不採決と決定する。



 この流れを見ると、空母ミッドウェイの母港化と米軍施設の返還は、明らかにリンクしています。長野の肚は初めから決まっているので、提案があってから相互に認めるまでわずか4日です。事実長野は次のように述べています。

私は空母ミッドウェイが横須賀をホームとし家族を居住させることを認めて、追浜・久里浜・衣笠武山地区約269万平方米をもらうのが、横須賀の将来のため得策だと考えたから取り引きしたと言う外ないと肚を決めた。(「空母ミッドウェイの母港化問題」)


 この取り引きが7対3といえるかどうか、母港化と施設の返還は単純な比較の対象にはならないので意見の分かれるところでしょうが、少なくとも長野の判断はこのようなものでした。

長野はこの空母母港化についても「一隻ぐらいは」との発言を行い、これが横須賀市常任委員会で追及されると「空母の母港化に踏み切ったのは百万平方メートルにのぼる追浜工業団地造成のカギとなる制限水域の解除にある」あるいは、「軍転法に基づく市の転換事業を推進するにはこの機会を逃してはならない」と釈明した<『神奈川新聞』昭和47・10・4、10・14、11・23>。長野は空母母港化に対する反戦運動より都市開発事業を優先させる姿勢を示したのである。(「新横須賀市史第4編第2章戦後市政の展開」)


 <政治>は<運動>ではなく、<都市開発事業>そのものは<政治>ではありません。長野がやったことは、ミッドウェイの母港化と引き換えに、「追浜・久里浜・衣笠武山地区」の土地や施設を取戻し、「追浜工業団地造成のカギとなる制限水域の解除」を得る、という<政治>を行ったのです。何かを得るためにはなにかを捨てなければならない。この判断が<政治>です。

 しかし<政治>は<運動>の関数でもあります。母港化阻止の<運動>があったからこそ、米軍は「交換文書にある追浜・久里浜・衣笠地区に加え、まだ内部の決着をみなかった武山も、横須賀市に譲与する旨を伝えてきた」とみることもできます。<政治>が欠如した<運動>が何らの成果を生むことなく終焉していくことは歴史の教えるところです 。母港化阻止の<運動>は、長野正義という政治家によって、広大な土地を取り戻すという成果を得たと見ることもできます。

ミッドウェイ母港化前後の施設の返還状況(横須賀市ホームページ「提供施設の返還状況」より作成)



返還地区 
返還日             広さ         現在の主な用途
追浜海軍航空隊   
   昭和46年02月19日        約28万㎡        追浜工業団地
衣笠弾薬庫     
   昭和47年03月15日        約44万㎡        公園墓地
久里浜倉庫地区   
   昭和47年03月22日        約83万㎡        くりはま花の国
追浜海軍航空隊   
   昭和47年04月03日        約18万㎡        追浜工業団地
追浜制限水域    
   昭和48年02月10日        約80万㎡        埋め立て
武山射撃場     
   昭和50年03月15日        約12万㎡        西部公園



 しかし、世論の評価は違っていました。

結局米空母の母港化は恒久化しSRFも日米共同使用となりその返還は大きく後退した。そして「革新市政をうたってきた長野市政がついに米空母の母港化を認めてしまったこと」に対する批判として、市民は来るべき市長選挙では新しい住民団体を組織して「革新市政実現を目指す」ことになった。<同前昭和48・5・26>。最終的に長野市政は市民から「革新」であることを否定される形で幕を閉じたのである。(「新横須賀市史第4編第2章戦後市政の展開」)


 市民が長野に見ていた「革新」と、長野自身の感じていた「革新市長」の間には 当初からある落差があったように思えます。実際長野は「社会党の政策に拘束されない」ということを条件に立候補の推薦を受けており、「基地のある市の長となって基地否定の行動をとることは、自己否定につながる」と考えていたのです。この落差が顕在化した時に、長野の市長としての使命は終わったと言えます。

 この「騒動」の翌年、長野の4期目の任期が切れ、16年勤め上げた市長を退任します。退任の挨拶は基地の問題を中心に話されていますが、最後は教育行政に関する心残りの心情がにじみ出ています。

今この職を離れるにあたり名残の惜しまれることは教育センターの実現をなしえなかったことであります。横須賀市の教育の中心となるべき殿堂、それは社会人に開放された権威ある講座をもつ大学であり、そこには教育のいろいろの問題について市民のだれもが参加できるシンポジウムが開かれており、親子連れだって学び、かつ遊ぶ学園であり、かように市民生活を美しく豊かにする根源をなすものを作りたいという構想は、この両三年、練ってきたものでありますが、この夢が将来実現できればよいと、心から願うものであります。(「市長退任の挨拶」)


 もし横須賀が基地を抱えていなかったら、おそらくこの構想の実現のためにもっと精力を注ぎ込むことができたでしょう。しかし長野の政治的課題は16年間基地の問題に尽きていたといえます。アメリカ第7艦隊空母の母港としての横須賀、そして旧軍用地を転用して市民の民生を図る横須賀、という現在の本市の姿は、長野市政がその基礎を築いたものであるといえるでしょう。

長野正義以後


 かつて長野を市長に押したのは、長野の教え子の飛鳥田一雄、社会党の委員長です。長野は「社会党の政策にとらわれなくてよい」という条件で、この要請を受けています。長野が候補者に選ばれたのは、教育者としての真摯な取り組みや梅津市政時に教育長として自説を貫いた姿勢など、その人格の清廉さといった要素であったように思えます。これから平和都市として生まれ変わろうとする横須賀において、「政界追放の梅津」対「清廉な教育長」という対抗の図式では、長野の優勢は誰の目にも明らかだったでしょう。

 この人格的な要素に「革新」というベールがかぶせられ長野市政がスタートしました。そして幸か不幸か、米軍基地の返還が当面の政治的課題であった当時の横須賀においては、市長を保守派がやろうが革新派がやろうが、大した違いはなかったとも言えます。市長に対する市民の信頼感だけが必要な要素でした。

 しかし、その後のミッドウェーの母港化という課題を迎えたとき、母港化を受け入れるのか、絶対阻止かという選択肢の答えが市民に求められることとなります。この答えが出されたのが、昭和48年市長選です。

 昭和48年7月1日、横須賀に新しい市長が誕生します。長野のもとで12年間助役をしていた横山和夫です。横山と市長の座を争った木村敬もまた長野市長の助役でした。横山が助役を勤めたのは長野県政の1期・2期・4期に、木村は3期目にほぼ該当しています。横山は長野市政の継承を、木村は革新市政の存続を訴え闘っています。この両者のスローガンに、長野市政の二重の性格が如実に表れています。長野市政は果たして「革新」であったのか。「革新」とはそもそも何であったのか。

 横山和夫が勝利したこの市長選が終わったのち、神奈川新聞に「長野市政16年間」という3回の連載が掲載されています。この中で、当時の横須賀自治研究所加藤勇所長は、「市が置かれた実情から、保守対革新の争点というものはほとんどなかった」と述べています。しかし16年の市政の最後になって米空母の母港化問題が発生した時、社会党は反対、共産・公明がこれに続き、自民・民社は賛成。長野与党が反対に回り野党が賛成とねじれを見せ、ここに 長野市政の二重性が顕在化することとなるのです。

 こうした状況で迎えた選挙戦において、革新市政の継承をうたう木村の応援団は、かつて長野を推薦した飛鳥田を始め、共産党代議士の中路雅弘、社会党参議院議員片岡勝治、加えて美濃部東京都知事、のちに東京都知事となる青島幸男、そして横須賀市出身の俳優石立鉄男、一方横山の応援団は、当時の県知事である津田文吾、田川誠一に加え、若き小泉純一郎といったメンバーでした。木村は「真の革新候補として革新市政を存続させるために絶対に勝利を勝ち取り、平和都市建設を達成したい」、横山は「長野市政を正しく受け継いでいけるのは私しかいない」とそれぞれ訴え闘います。

 選挙結果は、横山和夫114,683票、木村敬70,861票。基地の街における当時の保守対革新の闘いにおいて、4万票の差は大差といえるでしょう。長野市政の継承者が勝ち、革新市政の継承者は敗れます。これが、母港化と引き換えに横須賀の土地を取り戻した長野市政に対して市民の下した評価でした。

 選挙の終わった7月11日、横山は神奈川新聞のインタビューに次のように答えています。

老朽校舎を50年度までに改築し、教育センター建設のため基地の一部返還を国に求めるほか、老人福祉センター建設など、教育、福祉を中心とした市政を推し進めていきたい。


 まさに長野市政の継承を意識した見解に聞こえますが、横山もまた鳥取県の教育長というキャリアの持ち主です。そして、ここからさらに16年続く横山市政が始まります。横山にとって2回目と3回目の市長選でも、革新派は大敗を喫しています。

選挙                
選挙日        得票数
昭和52年選挙  
昭和52年06月09日   横山 和夫 114,683票  正木よしお 43,509票
昭和56年選挙  
昭和56年06月21日   横山 和夫 115,464票  本多 七郎 47,715票



 正木は横須賀地区労議長、当時全国革新市長会会長の飛鳥田横浜市長の応援を受けていました。本多は横須賀市議を経た元神奈川県議、折からのミッドウェイの母港化で反対運動が最も激しく闘われており、当時の長洲県知事もまた国に対して抗議声明を出している状況の中でした。それでも惨敗という有様だったのです。

 「新横須賀市史」は、「長野市政が市民から「革新」でないと否定されて幕を閉じた」としていますが、長野が引退した後の3回の市長選をみると、横須賀市民は「革新」を否定しています。つまり市民は、長野が革新でないと否定したのではなく、長野の「革新」の側面を否定したのです。長野市政以降の横須賀の歩みは、長野のいうとおり「基地のある現実に当面しつつ独自の市政運営をはかる」歩みであったことがわかります。