寺子屋復活

はじめに


初學之所知俗學之所記止其皮膚而已 君子之所知自皮而到肉自肉而到骨自骨而到髄(貝原益軒「慎思録巻之四」)


初学の知るところ、俗学の記すところはその皮膚にとどまるのみ。君子の知るところは皮よりして肉に至り、肉よりして骨に至り、骨よりして髄に到る。

 教育は次世代を担う人材を育成する営みであれば、それは、子どもたちの魂を揺さぶるものでなければなりません。果たした私たち大人は、子どもたちの髄に浸み込ませるほどの教育を行えているでしょうか。

 現在の学校教育の中で最も強化していかねばならないものは、この「髄に浸み込ませる」という教育の要素ではないでしょうか。

 一人ひとりの生活環境の違いを背景に、子どもたちの興味・関心、学習の動機、ネット環境など情報収集のための媒体などが大きく異なる中、学校教育に求められることの一つは<個別学習>にあると考えます。学習を個人の興味・関心から出発させることで、将来の生活との関連も含めた学習への動機が高まります。また一人ひとり異なる現在の学習の定着度を基準にし、そこから学習を積み上げることで、教育の成果がより定着するようになるでしょう。

 二つ目に必要なことは、現在のような同年齢の子どもたちを基盤とする学年制を、<異学年制>へとゆるやかに転換していくことです。このことは、教育を個別の動機から出発させようとするときに、より効果的な教育の体制となるでしょう。

 現在、学校には様々に異なるタイプの子どもや家庭環境の異なる子どもたちがいます。これまでの学年制は、一定の同じタイプや学力などを備えた子どもたちを想定して組まれています。しかしすでにこうした均一な子ども集団は見あたらず、これまでと同じ体制を維持することは困難となっています。異なる学習状況の子どもたちを均一の集団として扱おうとするために、様々な学校の矛盾や課題が発生しています。

 これに対し異なる学年の集団は、子どもたち同士の関係からより多く学ぶことのできる手立てとなる可能性を秘めています。子どもたちは初めから異なっていることを前提に集団が組まれるからです。

 これまでは多くの子どもたちが同じことを同じようにできるようにする、という意図で現在の学年制は組まれています。これからは、多くの子どもたちが違うことに興味を持ち、違うように考え、違うように活動する。そうした集団づくりをする必要があります。

 日本の学校は現在、基本的には学年制の集団を基礎とした一斉指導が行われていますが、実は<個別指導>と<異学年集団>により構成されていた教育機関が存在していました。それが江戸自体の寺子屋です。私たちはこの寺子屋の運営原理を再度、復元していくことが必要な時代をいよいよ迎えているのです。

学びのシステム


 高橋敏「江戸の教育力」によれば、寺子屋に入門する子どもは、数え七歳から十四歳、通っていた時期は農閑期の冬から春にかけてとなっています。これは、上州原之郷村(現・群馬県前橋市内)にあった九十九庵(つくもあん)という寺子屋の調査によるデータです。

 この九十九庵は船津伝次平親子が主宰した寺子屋で、子の伝次平は、老農として知られている人物です。老農というのは、幕末~明治前期において農耕、営農の研究、指導にあたった地方の農業指導者に対する呼び名ですが、この船津伝次平という人はその中でも明治三老農と呼ばれていた人物です。

 寺子屋に通う子どもは筆子と呼ばれます。九十九庵には船津親子それぞれの筆子が64名と48名いたそうです。その中の、ある筆子の習いの例です。

 まず、七歳から十四歳までの八年間で学んだ教科書とその内容は、次のようになっています。

初級編 
  • 「名頭字(ながしらじ)」(人名を学ぶ)
  • 「村名(むらな)」(周辺の村の名前を学ぶ)
  • 「国尽(くにづくし)」(日本に66ある国と2つの島の名前を学ぶ)

中級編 
  • 「年中行事」(一年の行事のあらましを学ぶ)
  • 「借用証文」(金銭の貸借証文について学ぶ)
  • 「御関処手形」(関所越え等、旅の通行手形について学ぶ)
  • 「田地売券」(田畑の売買証文について学ぶ)
  • 「東海道往来」(江戸から京都への幹線ルートである東海道の名所史跡を学ぶ)
  • 「五人組条目」(村人が守るべき基本法令を学ぶ)
  • 「妙義詣」妙義山参詣の名所史跡と上州の郷土地理を学ぶ)
  • 「手紙」(手紙の書き方を学ぶ)

上級編
  • 「商売往来」(商業に必要な語彙やそれに関する知識、商人の心がまえを説いたもの。)
  • 「百姓往来」(農作業、納税、衣服、食物、牛馬飼育など、農家に必要な知識と文字を学ばせる。)
  • 「世話千字文」(江戸時代の世の中や人々の様子を千の漢字で表したもの。)


 これらの教科書は、往来物と呼ばれています。この往来物を用いた漢字の読み書きの学びを通して、子どもたちは、日常生活にまつわる知識や村人としての規範、百姓や商人として必要な知識を学んでいったのでしょう。

 辻本雅史「教育と「江戸」から考える」には、寺子屋の様子が具体的に次のような内容で示されています。

 寺子屋へは、朝早く来て弁当を食べ、午後2時や3時頃まで勉強していたようです。勉強の仕方は手習いという言葉通り、師匠から渡された手本をひたすら写すことをくり返していた。師匠は、子どもの学力に応じた教科書を与え、その教科書の内容を身に付けると、次の教科書を与える。

 すなわち師匠の役割は、

  1. 学ぶモデルの提供  子どもに適切な手本を与える。
  2. 学びの支援     子どもの書く文字を修正したり運筆の指導をする。
  3. 学びの判断     達成度を点検し次の手本に進むかどうかを判断する。

というところにある。

 このように、教えるというよりもあくまで学ぶ主体である子どもの手本になることが、師匠の役割ということです。「めいめいが、みずからのペースで、自分に必要なだけ学ぶのが基本と考えられていた」のです。

 また、菱田隆昭「近世寺子屋教育にみる学習意欲の喚起」には、寺子屋のシステムについて次のような記載があります。

 学習は個別授業であったため、机(天神机)は、筆子同士向かい合わせでグループを作る場合が多かった。
 試験に類する次のような活動があった。

  1.  師匠から与えられた手本を浄書して提出する「清書」
  2.  毎月1回または毎年1回、暗誦、暗書させる「凌」
  3.  公衆の面前に席を設け晴れ着を着た筆子たちに文字を書かせる「席書」


 これらの活動においては、成績優秀者に書道の道具やお菓子を与えるなど、褒美による動機づけなども行われていたそうです。

往来物の内容


 次に、往来物の内容を少し詳しく見ていきます。有名な往来物として商売往来があります。商売に関する言葉が並べられており、漢字の学習をしながら、商売に関する言葉を覚えさせるねらいで、およそ千の漢字が並んでいます。こうした書物で子どもたちは学んでいました。商売往来の冒頭は、次の文で始まります。

凡、商売持扱文字、員数・取遣之日記・証文・注文・請取・質入・算用帳・目録・仕切之覚、


 「およそ商売で取り扱う文字としては」で文章が始まり、九つの言葉が並びます。員数は物の個数、仕切之覚は送り状の写し、といった意味でしょうか。

 これらのかなり難しい漢字を、今でいえば小中学生が学んでいました。商売なら商売に関係する言葉が並んでいるので、難しい漢字もその他の漢字と合わせて関連させながら覚えやすくなっています。また、大人になって必要な実用的な言葉が並んでいるので、将来の生活に役に立つ、という動機づけにもなっています。

 次に続く文章です。

両替之金子、大判・小判・壱歩・弐朱・金、位・品多、


 これを声に出して読むと、「りょうがえのきんす、おおばん、こばん、いちぶ、にしゅ、かねは、くらい、しなおおし、」とリズミカルに読むことができるよう、構成されています。さらに、商売で扱われる穀物や味噌・醤油・酒・酢などの食品関係、油・蝋燭・紙などの身の回りの品、袴・羽織・帷子などの衣類、鎧・兜・鞍・鐙などの武具、箪笥・衝立・襖・障子などの家具などが延々と続き、練薬・粉薬・散薬・膏薬などの薬で締めとなります。最後の一文です。

全以、贋之薬種不用、量入無之様正直第一也


 「全くもって、ニセの薬を用いてはならない。かけいれ(?)をしないよう正直を第一とせよ。」と道徳が説かれて終わります。商売をするにあたり必要な知識と倫理をこうして学んだということです。

 学習の進度には個人差があるので、授業は一斉には進みません。個人の進度に合わせて進んでいきます。一つの教科書が終わると次の教科書に進みます。例えば、世話千字文という往来物があります。これは今から1500年も昔の中国で使われていた教科書で、重複しない 1000の漢字を 2504字句に綴ったもので、その後日本に伝えられ、現在でも楷・行・草を対照させた『三体千字文』として書道の手本に用いられているものです。内容としては、自然・歴史・道徳・名君・人生などが語られています。

 この千字体をもじって江戸時代に日本で作られた往来物が世話千字文です。

鳳暦賀慶、御代泰平、何国静謐、自他幸甚、市店交易、廻船運送、荷物米穀、駄賃員数、勘定算用、商売繁盛、冨貴栄耀…


 世の中がよく治まってめでたいことだ、天下は太平、どこの国も穏やかに治まり、誰もが幸福、市場や店では交易がおこなわれ、廻船が米穀などの荷物を運んでいる、運送料や人の数、金勘定をして商売は繁盛し、贅沢な暮らしをしている…と、太平な世の中が描かれています。その後庶民の生活の様子が皮肉交じりに描かれ、最後に君主を称え農業の繁栄をもって終わります。

君主純熟、乍憚恐悦、仁成恵民、農業豊饒、百姓倶祝、千秋万歳


 このようにして、子どもたちは漢字を習得し、世の中のことを学んでいたようです。

 日本教科書体系という本には、「近道子寶」という往来物が載っています。「童部の時早く習いしるべき事あり。」という書き出しからは、「幼いものが悪くなるのは教えの道がないからである」として、うぐいすのひなを飼うときはよい音を出す別のうぐいすをそばに置け、と言った貝原益軒の「和俗童子」が連想されます。

 近道子寶は、天地、東西南北、春夏秋冬などの自然の説明から始まり、「日本國は六十六ヶ國有。」と社会の説明があり、「人の生まるるを誕生といふ。七日めを七夜と云。」と人々の習俗があり、生活にまつわるほとんどの事象が文章の中に収められています。中には次のように漢字が続く文があり、相当の漢字力がつくように工夫されています。

百姓は鋤鍬鎌山刀犁馬鍬俵莚戽持籠等の拵様、米麥大豆小豆大角豆蕎麥粟稗秬胡麻芥子瓜茄子大根胡蘿菔牛房等の作り様を習べし。(百姓は鋤や鍬・・・のこしらえ方や、米や麦・・・などの作り方を習うべきだ)


 また、「分限不相應成事を好み、遊山醉狂して一時成とも油斷あらば、落ぶるる相と知るべし。」と、耳の痛い文もあります。

さいごに


 寺子屋で学んだ子どもたちは筆子と呼ばれています。筆子たちは、地域の主にお寺の僧侶を師匠としながら学んでいました。そしてこの師匠がなくなった後、師への感謝の意を、思慕を込めて塚にして残しました。これが筆子塚です。

 横須賀市史によれば、市内に32の筆子塚があるということです。私が実際に見ることができたのは、横須賀中央駅の裏手にある良長院にある筆子塚です。この塚は明治21年に建てられたものなので、非常に鮮明な状態で残されています。師匠の名前は「當寺十八代世再中興春芳泰梅大和尚禅師」とあります。 良長寺(緑ヶ丘)にある筆子塚

 創建は鎌倉時代ですからおそらくは江戸時代後期、十八代目の春芳泰梅という大和尚禅師が、寺子屋の師匠だったということでしょう。碑には「昔日稚兒 磨頂徳」とあります。「その昔、子どもたちがこの寺子屋で徳を磨き極めた」といった意味かと思われます。

 筆子塚資料集成(千葉県・群馬県・神奈川県 : 「非文献資料の基礎的研究(筆子塚)」報告書)によれば、「湊町など13ヶ村、31人がこの碑を建立した」となっています。碑の台座には、発起人3名、有志者28名の名前が刻まれています。それぞれの氏名のうえには「港町、公郷村、元町、旭町、元甼、汐入甼、汐止町、汐入町」などの記載があり、当時の町村の名称が伺えます。町と甼は同じ意味ですが、字体としては、わりと統一されずに使われていたようです。

 筆子塚を見て感じることは、ここに教育の原点がある、ということです。現在の学校においても、寺子屋で取り組まれていた教育を想い、その要素を取り入れていくとき、限界を迎えた学校教育の再生への道筋がくっきりと見えてきます。過去に根拠を持つ未来だけが、私たちの取り組みの成功を約束しています。地下水脈として流れる日本の学びの遺産を生かすのは、今をおいてほかにありません。

 寺子屋で使用された往来物である「庭訓要語」には、次のような一節があります。

学問するに、道をしらむ事を以て、心に善を行ひ、人を愛し、たすくるを以て事とすべし。これ学問の要とする所、本を務るなり。もし才学のみ心を用ひ、みづから誇り、人を侮る者は、読まざるときより心ざまあしく、人にも譏(そし)り笑るるなり。慎むべし。


 学問というのは善を行うためにするのであり、人を愛し助けるためのものである。いくら学問を身に付けても、慢心し人を侮るようなことがあれば、学問をみにつけていないときの方がましである。そうならないように心せよ。

 これこそ国家と道徳の根幹となるべき態度だと思います。

参考文献

  • 日本教育思想体系「貝原益軒 下」日本図書センター
  • 高橋敏「江戸の教育力」ちくま新書
  • 辻本雅史「教育と「江戸」から考える」NHKこころをよむ
  • 日本教科書体系「往来編 第五巻教訓」講談社
  • 多田建次「学び舎の誕生」玉川大学出版部
  • 千葉県・群馬県・神奈川県「非文献資料の基礎的研究(筆子塚)報告書 筆子塚資料集成」
  • 群馬県立図書館 調査相談室「船津伝次平ー近代農業の父 関連資料リスト」
  • 菱田隆昭「近世寺子屋教育にみる学習意欲の喚起」日本学習社会学会年報第9号
  • 平凡社「世界大百科事典 第2版」